大手の歯車だった僕が、人の決断に寄り添う理由
「納得しないと進めない」人生
理屈で考え続けた少年が、高専・メーカー・人材業界を経て、 「本当に納得できるキャリア」を追い続ける物語。
納得できないと、前に進めなかった少年
私は、納得できないことには動けない子どもだった。
私は、幼いころから少し面倒な子どもだった。 大人が「こうしなさい」と言っても、その理由に納得できなければ動けない。 理屈が通らないこと、曖昧な説明、根拠のない決まりごと——それらがどうしても許せなかった。。
周囲から見れば「生意気」「理屈っぽい」。けれど本人にとっては、ごく自然な感覚だった。自分が理解し、腹落ちした上で進みたい。それだけだった。 「将来、これになりたい」という明確な夢はなかった。 医者でも、教師でも、スポーツ選手でもない。 ただ二つだけ、強く心に決めていたことがある。
一つは、「みんなが憧れる存在になりたい」ということ。もう一つは、「誰かに決められる人生ではなく、自分で選べる環境に身を置きたい」ということ。
小学生の頃、その欲求を一番シンプルに満たしてくれたのが陸上だった。理由は驚くほど単純だ。足が速ければ、クラスで一目置かれる。運動会では注目され、名前を覚えられ、自然と周囲の視線が集まる。
「これなら、分かりやすく憧れられる」
そんな少し不純な動機で始めた陸上だったが、気づけば毎日の練習が楽しくなっていた。記録が伸びる理由も、フォームを変えた結果も、すべてが理屈で説明できる。 努力と結果が一直線でつながる世界は、私の性格に驚くほど合っていた。
中学に進んでも陸上は続けた。だが一方で、進路については相変わらずピンと来るものがなかった。周囲が「普通科高校」「大学進学」と口にする中で、私の中にはどこか違和感が残っていた。そんなとき、工業系出身の父からふと出てきた言葉がある。
「高専って学校、知ってるか?」
正直、その時点では何も分からなかった。ただ、「数学と理科が得意な子が集まる学校」という一言に、心が少しだけ動いた。当時、数学と理科は大好きだった。答えが明確で、納得できる世界だったからだ。
高専に興味を持ち始めたタイミングで、高専祭があることを知った。母にお願いし、半ば見学気分で足を運んだ。しかしそこで見た光景は、想像とはまったく違っていた。制服姿の学生はいない。私服で、思い思いに歩き回り、作品を説明し、笑い合っている。先生と学生が対等に話し、どこか“管理されていない空気”が漂っていた。年齢は高校生のはずなのに、どこか大人びて見える。決められた型に収まっていない、その自由さが、強烈に刺さった。
「この学校に通いたい」
中学2年の秋、私は静かに決めていた。まだ将来の職業も、やりたい仕事も見えていない。それでも——納得できる環境で、自分の足で進める場所を選ぶ。その一歩が、後に大きな遠回りと挑戦へつながっていくことを、この時の彼はまだ知らない。
ただひとつ確かなのは、この“納得しないと進めない性格”こそが、彼の人生を何度も揺さぶり、何度も別の道へ連れていく原動力になるということだった。
自由に憧れた先に見えた「高専」という選択
進路が定まらない中で出会った、高専という新しい選択肢。
中学2年の2学期。進路を明確に考えるには少し早い時期だったかもしれないが、その日を境に心は決まっていた。
そこからはひたすら情報を集めた。ネットで調べ、パンフレットを読み、妹の友人の父親が高専卒だと知れば話を聞きに行った。機械・電気・電子・化学・都市工学といった多様な分野を知る中で、正直「これがやりたい」と言えるものはなかった。
悩んだ末に選んだのは機械工学科。理由は今思えば浅はかで、「一番オタクっぽくなさそう」という、それだけだった。しかし現実は甘くなく、成績的に見ても合格は決して安全圏ではなかった。
そこからの日々は必死だった。塾に通い、赤本を解き、授業の予習復習を繰り返す。それまで感覚で乗り切ってきた自分が、初めて“本気で食らいついた”時間だった。
やがて推薦を狙えるラインに届き、面接対策も始まったが、模試の評価は上がらず、面接でも言葉がまとまらない。夢を聞かれても熱く語れる未来がなく、焦りと不安だけが静かに積み重なっていった。
そして迎えた推薦入試の結果は不合格。高専で何を学び、卒業後どうなりたいかを語れる受験生たちの中で、自分はまだ言葉を持っていなかった。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。ここで筆記試験まで落ちれば進路は一気に狭まる。そう自分に言い聞かせ、最後の追い込みに全てを注いだ。
結果、筆記試験で機械工学科に合格。合格通知を見た瞬間、安堵と同時に言葉にできない重みを感じていた。これで人生が決まるわけじゃない。でも、この選択が自分の軸になる。そんな予感だけは確かにあった。
こうして、納得を求め続けた少年は、まだ何者でもないまま、高専という新しい世界の入り口に立った。
自分にピッタリな高専生活、それでも見えなかった「答え」
理屈が通る環境と出会いながらも、将来への違和感が残り続けた日々。
高専に入学してまず感じたのは、思っていたイメージとはいい意味でまったく違うということだった。
無口で機械オタクばかりの集まりを想像していたが、実際は驚くほど自由だった。真面目に授業へ向き合う学生もいれば、その自由さを活かして部活や趣味を全力で楽しむ学生もいる。不思議だったのは、どんなタイプでも常識があり、話がしっかり噛み合うことだった。
感情論ではなく理屈で話す。疑問は曖昧にせず、納得できるまで考える。その姿勢が当たり前の空気として流れていた。
「ここは、自分の居場所かもしれない」そう思えたのは、初めてだった。
一方で授業は想像以上に厳しかった。得意だと思っていた数学や理科も、ここでは人並み程度。授業のスピードも内容もこれまでとは比べ物にならず、ついていくだけで精一杯だった。
課題、レポート、テスト。油断すれば簡単に置いていかれる。それでも不思議と折れなかった。周りも同じように苦しみながら、それでも前に進いていたからだ。「できない自分」を否定される空気がなかった。
陸上も続けていた。身体を動かすことで頭の中が整理される。走る時間だけは余計なことを考えずに済んだ。
気づけば学年が上がり、専門性も深まっていった。機械工学は奥が深く、面白さもあった。しかし同時に、胸の奥に小さな違和感が残り続けていた。
——これを、仕事にしたいのか?
周囲には、はっきりとした将来像を描く仲間も増えていた。開発職、研究職、設計。語られる夢は具体的で現実的だった。
自分はどうだろう。「嫌いじゃない。でも、強く惹かれているわけでもない」その答えはずっと変わらなかった。
それでも何とか一度も留年することなく高専生活を終え、就職活動の時期を迎えた。しかしその時点でも、自分が本当にやりたいことは何一つ見つからないままだった。
次に選ぶ一歩が、波乱万丈の人生へと向かう大きな一歩になるとは——この時の自分はまだ知らなかった。
就職率100%の裏側で、立ち止まった僕
順調に見える環境の中で、自分の軸が見えなかった就職活動。
4年生になると、高専の空気は一変した。研究室や課題の話題に混じって、「就活」という言葉が日常的に飛び交い始めた。高専は就職率ほぼ100%で、大企業に強い。それは事実で、周囲もどこか余裕を感じさせる雰囲気だった。けれど、就活が簡単かといえばそんなはずはなかった。
高専の就活は一般的な大学とは少し違う。学校が用意した企業リストの中から選び、成績順で応募していく。一社ずつ結果を待って次に進むため、やり直しが効きにくく、選択には重みがあった。問題は、自分には「これがやりたい」という明確な軸がなかったことだった。やりたい仕事がないわけではない。ただ、「ここでなければいけない理由」が見つからなかった。
そんな中で最初に浮かんだのが「アシックス」だった。小学4年から続けてきた陸上で、常に足元にあった存在。「使い続けてきたものを、今度はつくる側に回れたら」その想いは自然だった。しかし結果は「不合格」。理由は分からないが、「思い入れ」だけでは届かない現実を突きつけられた。
次に選んだのは「JR東海」。社会インフラを支える大企業で、安定も規模も申し分ない。「ここに行けたら親も安心するだろうな」という気持ちもあった。だが結果はまた「不合格」。気づけば夏は終わり、周囲が内定式の話をしている中で、自分だけが取り残されている感覚が強くなっていった。
焦りはピークだった。それでも「どこでもいいから受かりたい」とは思えなかった。
そんな時、担任の先生から紹介されたのが大手自動車部品メーカーだった。設備開発に関わる仕事で、派手さはないがモノづくりの現場を支える重要な役割だった。
強い志望動機があったわけではない。ただ、現実的に向き合える選択肢だった。
一社ずつ判断を重ねる中で気づけば10月。「もしここもダメだったらどうなるのか」そんな不安を抱えながら待った結果、届いたのは「内定通知」だった。画面を見た瞬間、力が抜けた。嬉しさよりも先に、安堵が押し寄せてきたのを覚えている。
こうしてギリギリで就職先は決まった。第一志望でも理想通りでもない。それでも社会に出る切符は手に入れた。
ただ胸の奥には、小さな違和感が残っていた。「この選択は、本当に自分が納得したものなのか。」その問いは答えを持たないまま、心の中に居座り続けていた。そしてこの違和感こそが、後に人生を大きく動かすことになるとは、この時の僕はまだ知らなかった。
与えられた責任と、広がった違和感
責任ある仕事の中で見えた、「成長していない」という感覚。
大手自動車部品メーカーへの入社が決まり、社会人としての生活が始まった。しかし最初に突きつけられた現実は、配属先が希望していなかった福島県だったことだった。
正直、戸惑いはあった。地元から離れる不安もあり、「なぜここなんだろう」という思いも消えなかった。それでも任された仕事は想像以上に重く、設備開発やプロジェクト管理として現場の工程把握、進捗確認、関係者との調整など、若手ながら重要な役割を担っていた。 責任は大きく、やりがいもあった。「期待されている」と感じる瞬間も確かにあったが、日々の業務を重ねる中で、別の感覚が芽生え始めていた。
仕事の多くは状況の把握と調整。設備そのものを深く設計したり、自分の技術で何かを生み出す時間は驚くほど少なかった。トラブルが起きても判断は上位層に委ねられ、自分はその間をつなぐ役割に回る。気づけば毎日が似たような業務の繰り返しになっていた。
「自分は、今、何ができるようになっているんだろう」 忙しいはずなのに、スキルアップしている実感がない。成長している手応えも薄い。工事の進捗を追い、会議をこなし、書類をまとめる。社会人としての力は身についている。それでも技術者として積み上がっていく感覚は掴めなかった。
そんな矢先に起こったのが新型コロナウイルスだった。出張は制限され、現場に入る機会も減り、人と会う機会は激減した。仕事も私生活も一気に静まり返り、それまで忙しさで覆われていた時間が剥き出しになった。家にいる時間が増え、移動も飲み会も雑談も消えた。その代わりに増えたのは「考える時間」だった。
このままこの仕事を続けた先にどんな自分がいるのか。10年後、20年後も同じ役割を担っている姿がはっきりと想像できてしまう。安定も責任もあるが、成長と自由がない。新しいスキルが身についている実感は薄く、判断や選択の多くは既に決められた枠の中にある。自分で考え、決め、責任を負う余地は思っていた以上に少なかった。やるべきことは明確なのに、「前に進んでいる」という感覚がどこにもなかった。
そんな時、ふと頭に浮かんだ言葉があった。——独立。
最初は現実味のない発想だった。しかしコロナ禍で会社という枠組みが脆く見えたとき、その言葉は妙に重みを持って響いた。組織に属するのではなく、自分の力で価値を生み出す生き方。まだ何をするかは分からない。何ができるかも明確じゃない。それでも「このままではいけない」という感覚だけははっきりとしていた。
福島での仕事は続いていた。責任ある立場で期待もされていた。それでも心は少しずつ別の方向へと動き始めていた。この違和感は逃げではなく、変化の兆し。そう思えたとき、僕の中で次の物語が静かに動き出していた。
独立を目指してもがく日々
方向が見えない中でも、行動だけは止めなかった時間。
独立したい。その思いだけは、はっきりしていた。しかし「何をするのか」と問われると、言葉は途切れた。
自由を求めているのに進む方向が見えない。そんな矛盾を抱えたまま、会社員としての日々だけが過ぎていった。考えているだけでは何も変わらない。そう思ったとき、せめて行動だけは止めないと決めた。きっかけは、健康のために始めた筋トレだった。
最初は仕事終わりに軽く体を動かす程度だったが、次第にのめり込んでいった。身体は正直で、やった分だけ変化が返ってくる。昨日より重い重量が上がり、鏡の中の自分が少しずつ変わっていく。努力と結果が直結する感覚は、陸上を続けていた頃と同じだった。久しぶりに「前に進んでいる」と実感できた瞬間だった。
そんなある日、ジムで顔見知りになった先輩に言われた。「ベストボディジャパン、出てみたら?」最初は冗談だと思ったが、その言葉は頭から離れなかった。今は模索中だ。やらずに否定するより、一度本気でやってみよう。そう決めた瞬間、筋トレは趣味ではなくなった。
大会出場を目標に定め、約6カ月間、食事管理・トレーニング・生活リズムすべてを徹底的に変えた。仕事終わりにジムへ行き、休日もトレーニング。楽ではなかったが、不思議と苦ではなかった。期限とゴールがあり、そこから逆算して動く。このプロセスこそが、今の自分に必要だった。
そして迎えた大会当日。ステージに立ち、ライトを浴びた瞬間、緊張よりも「やり切った」という感覚が先にきた。結果以上に、自分で決めたことを6カ月やり切った事実が何より大きかった。
ただその経験を通して、冷静な現実も見えた。筋肉業界はすでに飽和しており、SNSには同じような発信やビジネスが溢れている。
この分野で独立し続ける未来は想像できなかった。「これは違う」そう判断した瞬間、筋肉を軸にした独立は迷わず手放した。
「独立を急がない」という選択
遠回りではなく、最短距離を選ぶための戦略的な決断。
ベストボディジャパンへの挑戦を終えたあと、胸に残ったのは達成感と、もう一つの冷静な感覚だった。「この世界で長く戦う未来は想像できない」。
勢いだけで独立するのは違う。そう判断し、筋肉を軸にした独立はきっぱりと断念した。
しかし、会社に戻って何も考えず働く気にもなれなかった。独立したいという思いは消えていない。だからこそ転職活動も並行して進めることにした。条件はひとつ。「次の仕事が将来の独立につながるかどうか」。
そんな中で目に留まったのが、人材業界の求人だった。「メーカーに寄り添うこと」を強みとする会社。興味があったわけではないが、その内容に強く引っかかった。技術者のキャリアと企業の事情を踏まえたマッチング。「人を売る」のではなく、「人と企業の未来を考える」。その言葉を見た瞬間、確信した。——これだ。
高専出身でメーカー勤務。現場も管理も、組織の中で働く感覚も理解している。その自分だからこそできる仕事があると思えた。すぐに応募し面接へ進んだ。印象的だったのは社長と直接話したことだった。これまでの違和感、独立への思い、将来の働き方。すべて正直に話した。
すると返ってきたのは、「独立を考えているのはいいことだと思う」という言葉だった。その一言で肩の力が抜けた。この会社では独立は裏切りではなく、成長の延長線として捉えられていた。ここなら営業だけでなく、人のキャリアを分析し言語化する力が身につく。それは将来どんな事業をするにも必要な力だった。
人はなぜ悩み、どこで立ち止まり、何を求めて動くのか。それを理解できなければ、どんなサービスも意味を持たない。「独立を急がない」。この選択は逃げではなく、これまでで最も戦略的な決断だった。組織に属しながらも視点は外へ。中で力を蓄え、自分の引き出しを増やす。この遠回りは確実に意味があると確信していた。
そうして僕は、新しい業界への一歩を踏み出した。
がむしゃらの先で見えた「違和感」と、次の構想
経験の積み重ねが、「自分の仕事」を見つける輪郭になっていく。
人材業界に入ってからの日々は、とにかく濃かった。電話、面談、企業訪問、資料作成。朝から晩まで動き続け、頭も感情もフル回転させる毎日だった。
この仕事で確実に身についたものがある。相手の言葉をそのまま受け取らず、背景や本音を読み取る力。表情や間、声のトーンから思考や価値観を仮説立てし、言語化する分析力だった。
面談を重ねる中で、「なぜこの人は転職を考えているのか」「本当は何に違和感を覚えているのか」を深く掘り下げるようになった。質問を重ね、思考を整理し、本人ですら気づいていなかった軸を一緒に見つけていく。面接対策も同じだった。模範解答を教えるのではなく、その人の経験や思考を企業に伝わる形へと翻訳する。その結果、内定が決まったときの安堵と感謝の言葉は、何度経験しても胸に残った。
しかし、仕事に慣れるほどに、ある違和感も大きくなっていった。多くの転職コンサルがマニュアル通りに動き、経歴を聞き、条件を整理し、求人を当てはめる。それは効率的でビジネスとしては正しい。それでも疑問が残った。「それだけでいいのか」。目の前の人は本当に理解されているのか。なぜその選択をしてきたのか、どんな価値観で働き、どこでつまずいてきたのか。そこまで踏み込む人は驚くほど少なかった。
学校で学んだ「問題と本質」、メーカーで感じた違和感、高専で培った理屈と構造の思考。それらすべてが、この仕事の中でつながっていった。
——人は、もっと丁寧に扱われるべきだ。
——キャリアには、必ず背景と構造がある。
そう考えるようになった。だから今、新しい人材コンサル事業を構想している。メーカーで働く人、技術者、現場を知る人に寄り添う“メーカー型”の人材コンサルだ。
単なる転職支援ではない。現場理解を前提に、キャリア・組織・事業まで含めて考える。一人ひとりの背景と意思を、時間をかけて理解する。がむしゃらに働いた日々で得たコミュニケーション力、分析力、面接力。そして何より、違和感を見過ごさなかったこと。
すべては次の挑戦のためだった。僕は今、ようやく「自分がつくりたい仕事」の輪郭を掴み始めている。
—— 完結 ——
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