No.008 Hide 本編

CAREER STORY No.008
30代 / 高専卒の物語

バイオリン少年が博士・起業家・教授になるまで

No.008 / Hide

ゲーム少年から、研究と教育をつなぐ准教授へ

ゲーム、バイオリン、高専、大学編入、博士課程、塾経営、そして母校の教員へ。遠回りに見える経験の一つひとつが、研究者としての自分と教育者としての自分を形づくっていく物語です。

第1話

ゲーム少年とバイオリン

ゲームに夢中だった少年が、機械いじりとバイオリンを通じて継続する力を育てていく。

一人で過ごす時間が好きだった

兵庫県尼崎市の住宅街で、僕は三人兄弟の長男として育った。

弟たちはいつも元気だったが、自分はどちらかというと大人しい方だった。学校でも目立つタイプではなく、友達と穏やかに過ごすのが好きな子どもだった。

将来の夢は消防士。テレビで消防車を見るたびに格好いいなと思う、ごく普通の男の子だった。

母は専業主婦なのだが地域活動にも積極的で、家を空けることも多く。そのため学校から帰ると家に誰もいないことも珍しくなかった。

ただ、うちの家にはよく友達が集まった。学校が終わるとランドセルを放り投げ、みんなでテレビゲームをする。特別な家ではなかったが、なぜか自然と人が集まる場所だった。

友達と遊ぶのも好き、一人で過ごすのも好き。ただ、その頃の僕の世界の中心は間違いなくゲームだった。

ゲームから始まった機械いじり

特に好きだったのはRPGゲーム。主人公が成長し、新しい仲間と出会いながら冒険する。その世界に夢中になっていた。

だからテレビの調子が悪くなると本気で困った。画面が映らない。音が出ない。親が修理している姿を見ているうちに、自分でもやってみたくなり、テレビを分解し、配線を確認する。端子を締める。すると映る。

最初はゲームを続けたい一心だったが、自分で直せた時の達成感は想像以上に嬉しかった。

それからは壊れた家電を見ると中が気になるようになっていき、ドライバーで分解し、配線を確認し、時にははんだごてまで使うようになった。

「なんで動くんやろ」「どういう仕組みなんやろ」そんなことを考える時間が楽しかった。今思えば、後に工学へ興味を持つきっかけはこの頃にあったのだと思う。

バイオリンとの出会い

勉強は比較的得意だった。理科や数学も好きで、苦手な教科といえば体育くらい。そんな小学五年生の頃、一つの転機が訪れる。

近所のお兄さんから「バイオリン、一緒にやらへん?」と声を掛けられたのだ。地元の少年少女オーケストラに軽い気持ちで参加したのだが、その世界は想像以上に厳しかった。

休日は朝から夜まで練習。平日も自主練習。挨拶や礼儀にも厳しく、新聞コラムを読んで感想を書くことまで求められた。ゲーム中心だった生活は一変。

正直しんどかったし、友達が遊んでいるのを羨ましく思う日もあったが、それでも不思議と辞めたいとは思わなかった。

少しずつ弾ける曲が増え、仲間と音楽を作り、地域のイベントで拍手をもらう。その喜びはゲームでは味わえないものだった。

もちろんゲームも諦めてはいない。バイオリン練習前日に先輩の家へ泊まり、夜遅くまでゲームで遊んでから、翌朝目を擦りながら一緒に教室へ向かっていった。

当時の僕はまだ知らない。この何気なく始めたバイオリンが、後の人生を支える「継続する力」を育て、やがて大きな進路選択へつながっていくことを。

第2話

分岐点——初めて親に反対された進路選び

音楽の道を目指したかった中学時代、初めての反対をきっかけに高専という道が現れる。

生徒会長になっていた中学時代

中学生になっても生活そのものは大きく変わらなかった。学校へ行き、帰ればバイオリンの練習へ向かう。そんな毎日だった。

ただ、学校の環境は小学校とはまるで違った。当時通っていた中学校は地元でもかなり騒がしいことで有名だった。男子が生徒会長になると不良グループに目を付けられやすく、生徒会長は女子が務めるのが当たり前という空気があった。

そんな中でも僕は相変わらずだった。目立ちたいわけでもないし、誰かと対立したいわけでもない。ただ友達と笑いながら平和に過ごしたかった。

ところがある日、生徒会から呼び出される。保健委員長をやってほしいという話だったはずが、気付けば生徒会役員になり、さらに生徒会長になっていた。

不良グループとも比較的うまく話せる性格だったことが理由らしい。それからは週に一度の会議へ参加しながら、変わらずバイオリン中心の生活を送っていた。

音楽の道を目指したかった

勉強も順調で、最初の中間試験では学年一位。授業をしっかり聞いていれば点数が取れる学校だったこともあり、家ではほとんど勉強しなかった。それでも成績は上位を維持できていた。

一方で、気持ちはどんどん音楽へ向かっていく。吹奏楽部にも入ったが、バイオリンとの違いに戸惑い、すぐに退部した。楽譜の読み方も違うし、練習時間も限られる。それならバイオリン一本に集中しようと思った。

中学二年生になる頃には、将来の夢は完全にバイオリニストになっていた。地元近くで本格的に音楽を学べる高校は一校しかない。音楽科を持つ公立高校だ。

休日のほとんどを練習に費やし、人前で演奏する機会も増えていた。だから進路を考え始めた頃には迷いなどなかった。将来は音楽の世界で生きていく。そのために、その高校へ進学する。当時の僕は本気でそう信じていた。

消えた第一志望

ある日、両親に進路の希望を伝えた。応援してもらえると思っていた。ところが返ってきたのは予想とは正反対の言葉だった。

「音楽で食べていける人はほんの一握りや」「そんなリスクの高い道には進ませられへん」

初めて受けた強い反対だった。何度も話し合った。温厚な自分らしくなく家出までした。それでも両親の考えは変わらない。

気付けば第一志望は消えていた。目標を失い、何を目指せばいいのか分からなくなった。そんな時、学校の先生が一冊のパンフレットを渡してくれる。

「高等専門学校って知ってるか?」

初めて聞く名前だった。ただ、そこに書かれていた言葉だけは強く覚えている。「就職率ほぼ100%」「求人倍率数十倍」

バイオリニストになれないなら、早く働けばいい。そう考えていた当時の僕には、その言葉が妙に魅力的に映った。

まだ知らなかった。この時手にした一冊のパンフレットが、人生の方向を大きく変えることになるなんて。

第3話

高専受験——高専という選択肢

軽い気持ちで選んだ高専で、初めての挫折と新しい世界に出会う。

軽い気持ちで決めた進路

高専を受験すると決めてからの流れは驚くほど早かった。

成績は悪くない。生徒会長の経験もある。先生からも「今の成績なら推薦が狙える」と言われ、僕はすぐに出願届を提出した。

学科選びも深く考えていない。電子工作が好き。その理由だけで電子工学科を選んだ。将来どんな仕事をするのかも、高専で何を学ぶのかもよく分かっていなかった。

推薦入試が決まると、さらに気持ちは楽になった。模試の判定も良く、もし落ちても地元の高校へ進学すればいい。その程度の感覚だった。

面接練習だけは先生に付き合ってもらったが、人前で話すことは苦にならない。オーケストラ活動で発表や司会を経験していたこともあり、面接への不安はほとんどなかった。

そのため推薦試験の前日ですら、僕は家でRPGゲームに夢中になっていた。今思えば信じられない話だが、それほど余裕があったのだと思う。そして推薦当日も特に緊張することなく終わり、無事に合格通知を受け取った。

初めて味わった挫折

高専に入学し、最初の中間試験を迎える。僕は中学時代と同じ勉強法で臨んだ。試験一週間前になったら問題集を一周する。それで十分だと思っていた。

結果は惨敗だった。得意だと思っていた数学や理科で平均点以下。解説を聞いても知らないことばかり。順位も人生で見たことがない数字だった。

さらに仲の良かった友達の中で一番下の成績になる。「お前、一番下やん」何気ない一言だったが悔しかった。人生で初めて、本気で危機感を覚えた瞬間だった。

高専という新しい世界

そこから勉強法を変えた。

授業で理解するだけでは足りない。同じ問題を何度も解き、体が覚えるまで繰り返す。黒板を書き写すだけだったノートも、先生が口頭で話した重要な内容を書き込むようにした。さらに先輩から譲ってもらった過去問も徹底的に解いた。

すると少しずつ成績は上向き始める。

勉強以外にも新しい世界が広がっていた。学生会に入り、学校行事の運営に関わる。さらに高専入学を理由に買ってもらったパソコンにも夢中になった。授業で習ったプログラミングを家で試し、思い通りに動けば嬉しい。動かなければ原因を探す。その繰り返しだった。

そして高専には面白い人がたくさんいた。スポーツ万能な人、驚くほど物知りな人、数学や物理が飛び抜けて得意な人。気付けば僕も図書館で数学や物理の本を借りるようになっていた。

音楽の夢を失って始まった高専生活。しかし知らないうちに、新しい世界の面白さに引き込まれていた。そして、その先で僕は人生を大きく変える「研究」という世界に出会うことになる。

第4話

高専進路——研究者になるために

就職するつもりだった高専生が、研究者を目指して大学編入へ向かう。

就職ではなく、その先へ

高専に入学した頃の僕は、卒業したら就職するつもりだった。そもそも高専を選んだ理由の一つが「就職率ほぼ100%」だったのだから当然である。

ところが三年生になる頃には、その考えが少しずつ変わり始めていた。数学が面白い。物理が面白い。プログラミングも面白い。最初は試験で点を取るために勉強していたはずなのに、気付けば「もっと知りたい」という気持ちの方が大きくなっていた。

特に興味を引かれたのが物理だった。授業や本を通じて量子力学や半導体といった世界の存在を知る。しかし高専で学べる内容には限界がある。もっと深く学びたい。そんな思いが少しずつ強くなっていった。そして気付けば、就職ではなく大学編入という選択肢を考えるようになっていた。

編入という選択

大学について調べ始めると、東大や京大といった有名大学が目に入る。研究環境としては申し分ない。ただ、高専から編入する場合、多くは二年次編入になることを知った。

高専で学んだ内容をもう一度大学で学ぶ。もちろん無駄ではない。それでもどこかもったいない気がした。高専は大学へ進学しやすい。一方で研究者を目指す場合、少し遠回りになることもある。そんなことを考えるようになっていた。

まず取り組んだのは英語だった。編入試験ではTOEICの点数が評価される大学も多い。通学電車の中で単語帳を開き、毎日少しずつ覚えていく。数学や専門科目は高専の授業をしっかり理解していれば対応できると考えていたので、まずは英語を固めることにした。

また、編入を目指す仲間とも積極的に情報交換した。同じ目標を持つ人と話していると自然とモチベーションも上がる。一方で、編入への向き合い方には個人差があった。僕自身は、編入を目指して本気で努力している仲間と主に情報交換を行い、互いに刺激を受けながら学習を進めた。

その頃の僕は、趣味として続けていたバイオリン演奏を動画サイトへ投稿したりもしていた。音楽の道は諦めた。それでも音楽そのものを嫌いになったわけではなかった。

一本勝負

四年生になる頃には志望校も見え始めていた。条件は二つ。量子物理を深く学べること。そして高専から三年次編入できることだった。

そうして調べていく中で、一つの大学が候補に浮かび上がる。それが「神戸大学」だった。

学科もいくつか選択肢はあったが、最終的に電気電子工学系を選んだ。量子物理は独学だけで学ぶには難しい。ならば専門の先生がいて研究環境が整った場所へ行くしかない。そう考えたのである。

普通なら第二志望や第三志望も考える。しかし僕にはそれがなかった。親の考えは昔から変わらない。「大学は行きたい人が行く場所や」「行きたい大学に行けないなら就職したらいい」

つまり神戸大学に落ちれば就職。選択肢はそれだけだった。だからこそ覚悟も決まった。神戸大学以外は受けない。大学へ進む道は一つしかない。そうして僕は、高専生活の中で初めて本気で編入試験と向き合うことになる。ただ、その道のりは想像していたよりずっと険しいものだった。

第5話

大学生活——大学生活、そして研究という沼

塾講師、編入、研究室。忙しさの中で、研究者への道が現実になっていく。

編入試験と塾講師の板挟み

高専5年生になった頃、編入試験の勉強はいよいよ佳境を迎えようとしていた。そんな時だった。軽い気持ちで始めた塾講師のアルバイトが、思っていた以上に楽しくなっていたのである。

最初は小遣い稼ぎのつもりだった。しかし、生徒が問題を解けるようになった瞬間や、成績が上がって喜ぶ姿を見るのは想像以上に面白かった。気付けば週5日も塾へ通うようになっていた。

ただ、編入試験は8月。勝負は夏休みにある。このままでは勉強時間が足りなくなる。そこで僕は一つの計画を立てた。夏期講習が始まる前までに試験範囲と過去問を一通り終わらせる。そして夏休み期間は塾が終わった後、復習だけを行う。

今振り返ると無茶な計画だったと思う。それでも夜10時過ぎに帰宅し、そこから毎日二〜三時間机に向かった。高専で授業を真面目に受け続けていたこともあり、何とか予定通り進めることができた。そして迎えた編入試験。結果は合格。第一志望だった神戸大学への編入が決まった。

編入生という立場

期待は大きかったが、不安もあった。それは勉強ではなく人間関係だった。

大学3年生から編入するということは、周囲はすでに2年間同じ環境で過ごしている。その輪の中へ途中から入っていかなければならない。

ところが、その不安は入学後すぐに消えた。編入生同士の交流会があったのである。先輩たちが毎年開いてくれている会で、同じような不安を抱えた編入生たちが集まっていた。そこで友人ができ、さらに一般入試で入学した学生たちも積極的に話しかけてくれた。

「高専ってどんな学校なん?」そんな会話から自然と人間関係が広がっていく。気付けば孤立することもなく、大学生活に馴染んでいた。

研究者への道

大学に入って最初に感じたのは、高専との違いだった。

学生たちは落ち着いている。ただ勉強への熱量は人によって大きく違った。専門分野に強い興味を持っている人もいれば、そうではない人もいる。一方で先生たちは違った。研究への情熱は圧倒的だった。

ただし、教えることが得意かというと別の話である。研究はすごいが授業は分かりにくい。そんな先生も少なくなかった。

そんな中、自分が学びたかった量子物理の世界へ少しずつ足を踏み入れていく。しかし学べば学ぶほど新しい疑問が生まれる。二年間では足りない。そう感じた頃には、就職という選択肢は完全に消えていた。大学院へ進む。それが自然な結論だった。

一年間授業を受ける中で、「この先生の授業は面白い」と思える先生が三人いた。そして偶然にも、その三人は同じ研究室に所属していた。その分野は自分の興味のある量子物理系。迷う理由はなかった。

こうして僕は研究室へ進み、塾講師、研究、そして趣味のバイオリンを両立する生活を送ることになる。研究が終われば塾へ向かう。塾が終われば研究室へ戻る。時には夜中まで研究を続け、そのまま研究室で仮眠を取ることもあった。忙しかった。それでも不思議と充実していた。そしてこの頃には、一つの決意が固まり始めていた。博士課程へ進み、研究者として生きていく。その道を本気で目指し始めていたのである。

第6話

修士・博士編——研究者という生き方

半導体シミュレーション、塾、音楽、後輩指導。研究者としての生活が深まっていく。

数学と物理がつながった瞬間

大学院へ進学した頃には、就職よりも研究への興味の方が大きくなっていた。

僕が取り組んでいたのは半導体のコンピュータシミュレーションである。半導体はコンピュータの性能を左右する重要な部品であり、その動作には量子力学が深く関わっている。高専時代に学んだ数学、物理、プログラミング。その全てが生かせる分野だった。

研究ではまず仮説を立てる。プログラムを作り、計算を実行する。そして予測と異なる結果が出れば、その原因を探るためにさらにデータを取得し、仮説を修正する。なぜそうなるのか。本当にその理論で説明できるのか。誰も答えを持っていない問いを追い続ける。その感覚が面白かった。

研究室と塾と音楽

修士課程に入ると授業はほとんどなくなり、生活の中心は研究になる。

朝から研究室へ行き、シミュレーションを走らせる。計算には何時間もかかるため、その間に授業へ出たり、新しいプログラムを書いたりする。夕方になると塾講師のアルバイトへ向かい、夜十時頃に研究室へ戻る。そして深夜まで解析や論文執筆を続ける。休日はオーケストラやバイオリンの練習だった。

今振り返ると予定のない日はほとんどなかった。それでも苦ではなかった。研究も塾も音楽も、自分が好きで続けていたことだったからである。

研究室の先生には強い信念があった。「中途半端な論文なら出さない方がいい」「出すなら世の中の役に立つものを出そう」その言葉通り、論文の投稿も簡単にOKは出ない。本当に有効だと言われている材料を改めて検証したり、原因不明の現象をシミュレーションで解明したりする。そうした成果を論文として世の中へ発信していくことに、大きなやりがいを感じていた。

博士という世界

修士課程を終えた僕は博士課程へ進学した。

世間では博士というと「勉強ができる人」という印象が強い。しかし実際は少し違う。博士に求められるのは、新しい知識を生み出すことである。その評価基準になるのが論文だった。学会発表を行い、査読付き論文を投稿し、その成果によって博士号取得が認められる。

博士課程に入ると、自分の研究だけでなく学部生や修士学生の指導も任されるようになった。ゼミ資料の添削や後輩の相談に乗ることも増えていく。

論文執筆も想像以上に大変だった。査読者から何度も修正を求められ、英語論文を書き直す。当時は今のようなAIもなく、辞書を片手に英文を修正し続けた。それでも少しずつ成果は積み上がっていく。研究者として生きていく。その頃の僕は、それ以外の未来をほとんど考えていなかった。しかし博士課程の終盤、その考えを大きく揺るがす現実に直面することになる。

第7話

就活編——研究者か、教育者かはたまた…

博士課程の終盤、研究者としての自分と教育者としての自分が揺れ始める。

博士の就職活動

博士課程の終盤になると、研究だけに集中しているわけにはいかなくなった。就職活動である。

博士の就職は学部生や修士課程とは少し違う。まず研究成果が十分でなければ、修了することができない。修了の見通しが出てはじめて、多くの人は企業の研究職か大学・高専などの教員を目指すことになる。

僕も当初は研究職を希望していた。せっかく博士まで進んだのだから研究を仕事にしたい。そう考えるのは自然な流れだったと思う。

しかし現実は思っていたより厳しかった。博士卒向けの研究職は決して多くない。さらに自分の専門である半導体や量子物理に関わる仕事となると選択肢はさらに少なくなる。気付けば、希望していた企業には優秀な先輩たちが次々と進んでいた。研究が好きなだけでは進めない世界がそこにはあった。

もう一つの居場所

そんな中でも僕は塾講師を続けていた。研究室の先生からは何度も言われる。「研究に集中するなら塾は辞めた方がいい」

確かにその通りだった。昼は研究。夕方から塾。夜十時に研究室へ戻り、深夜まで実験や論文執筆を行う。今考えても無茶な生活だったと思う。

それでも続けていたのは、生徒に教えることが純粋に好きだったからだ。分からなかった問題が解けるようになる瞬間。苦手だった科目を克服していく姿。その変化を間近で見ることに、大きなやりがいを感じていた。

気付けば高専時代から何年も続いていた。研究者としての自分と、教育者としての自分。その二つが少しずつ同じ大きさになっていた。

人生を変えた誘い

そんなある日、塾長から声を掛けられる。「一緒に新しい塾を立ち上げへんか」

予想もしていなかった言葉だった。研究者として生きるつもりで博士課程まで進んできた。しかし目の前には教育という別の道が現れている。

もちろんすぐには決められなかった。研究も好きだ。教えることも好きだ。だからこそ迷った。人生で何度目かの大きな分岐点だったと思う。そして僕は、この選択によって人生が大きく変わることになる。

研究者になるはずだった僕は、博士号取得を目前にしながら、少しずつ教育の世界へ足を踏み入れようとしていた。

第8話

起業編——ゼロから教室をつくる

研究者ではなく教育の道へ。教えること、育てること、経営することを学んでいく。

初めての経営

博士号を取得した僕は、研究者ではなく教育の道を選んだ。とはいえ、待っていたのは「先生」ではなく「経営者」という立場だった。

塾を立ち上げるといっても、生徒が最初から集まるわけではない。まずは教室を借り、机や椅子をそろえ、地域の学校や競合塾を調べ、広告やホームページも作る。気付けば、研究室で論文を書いていた自分が、今度はチラシのデザインや教室のレイアウトを考えていた。

不思議だったのは、高専や大学で学んだことが意外な形で役に立ったことだ。ホームページは自分で作り、データを分析しながら広告の反応を検証する。研究で身につけた「仮説を立て、検証し、改善する」という考え方は、経営でもそのまま生きていた。

教えることと育てること

教室が始まると、生徒は少しずつ増えていった。

授業はやはり楽しかった。分からなかった問題が解けるようになり、自信を取り戻していく姿を見るたびに、この仕事を選んで良かったと思えた。

ただ、教室が大きくなるにつれ、自分の役割も変わっていく。生徒だけでなく、講師を育てることも仕事になった。

どうすれば授業が分かりやすくなるのか。どうすれば講師が気持ちよく働けるのか。研究室では後輩を指導してきた経験もあったが、年齢も考え方も違う社会人をまとめる難しさは想像以上だった。

教育とは、人に教えることだけではない。人が成長できる環境をつくることでもある。そのことを、この頃初めて実感した。

順調だった、その先で

開校から数年が過ぎ、教室は軌道に乗り始めた。

生徒数も増え、会社としても安定してきた。そして次の目標として二校目を出す計画が動き始める。もっと多くの子どもたちを支えたい。その思いに迷いはなかった。

ただ、会社が大きくなるほど、僕は教壇から少しずつ離れていくことになる。授業をする時間より、会議や採用、経営の数字を見る時間の方が増えていった。その変化に、この時はまだ気付いていなかった。

第9話

転機・転職編――本当にやりたかったこと

塾経営の先で見えた違和感と、母校から届いた一本の連絡。

二校目という大きな挑戦

開校から数年が経ち、教室は少しずつ地域に根付いていった。

前の塾から移ってきてくれた生徒や保護者の口コミもあり、生徒数は順調に増加。二年目には法人化し、三年目には二校目を出せるまでになっていた。当時の僕は、一校目の教室運営を任されていた。

生徒への授業だけでなく、講師の育成や保護者対応、教室運営まで任されるようになり、教育者としても経営者としても充実した毎日だった。だからこそ、二校目も同じように軌道へ乗ると信じていた。しかし現実は甘くなかった。

思うように生徒は集まらず、広告を出しても反応は少ない。売上よりも経費が上回り、一校目で積み上げた利益を二校目へ回し続ける日々が始まった。

研究ではデータを集めれば原因に近付くことができる。しかし経営は違う。地域性、タイミング、人との縁、景気、口コミ…。数字だけでは説明できない要素があまりにも多かった。広告の内容を変え、イベントを企画し、何度も改善を繰り返した。それでも状況は思うようには変わらなかった。

教育者と経営者の違い

最終的に二校目は閉校する決断をした。もちろん悔しかった。

ただ、それ以上につらかったのは、一緒に働いてきた講師たちの居場所を考えなければならなかったことだった。二校目のスタッフは一校目へ異動することになり、教室全体の人員は一気に増えた。経営としては正しい判断だったと思う。

しかし、その頃には僕自身が教壇へ立つ時間は大きく減っていた。授業よりも会議。生徒よりも売上。講師よりも経営。毎日やっている仕事は教育ではなく経営だった。

もちろん会社を続けるためには必要な仕事だった。それでも心のどこかで違和感が大きくなっていく。「自分が本当にやりたかったことは何だったんだろう。」

答えは意外なほどすぐに見つかった。会社を大きくすることではない。経営者になることでもない。目の前の一人と向き合い、その人が少しずつ成長していく姿を支えることだった。その気持ちは、高専時代に塾講師を始めた頃から何一つ変わっていなかった。

母校から届いた一本の連絡

資金にもある程度余裕ができ、教室もスタッフだけで回せる体制が整ってきた。新しいことへ挑戦するなら今しかない。

そう考え、五年間続けた塾を離れる決断をした。退職後は失業保険もあったので、半年ほどゆっくり過ごそうと思っていた。ところが、その計画は一本の電話で大きく変わる。

「高専で教員を募集しているのですが、応募してみませんか。」母校からの連絡だった。研究も続けられる。学生にも教えられる。これまで歩んできた研究者としての経験と、塾で積み重ねてきた教育の経験。その両方を生かせる仕事が目の前に現れた。

もちろん応募すれば採用されるわけではない。七月に面接試験が行われ、他の応募者と同じように選考を受ける。結果が届くまでの時間は、博士論文の審査を待つ時とはまた違う緊張感があった。そして届いた採用通知。

高専を卒業して十数年。学生として過ごしたあの校舎へ、今度は教員として戻ることになった。ゲームに夢中だった少年が、研究者を目指し、塾を立ち上げ、再び母校へ帰る。その新しい物語は、ここから始まろうとしていた。

第10話

現在編――そして、教壇へ

研究者としての経験と教育者としての経験が、高専という場所で重なっていく。

母校へ戻る日

面接を終え、無事に採用が決まった。

こうして僕は、十数年ぶりに母校へ戻ることになった。学生として毎日歩いていた校舎を、今度は教員として歩いている。不思議な感覚だった。

塾では昼から夜まで働く生活だったため、最初は朝九時から始まる勤務に少し不安もあった。それでも一か月ほどで体は慣れ、授業や実験、卒業研究の指導、学会運営など、新しい毎日が始まった。

学生時代には見えなかった先生方の仕事を知り、自分もその一員として学校を支えている。その実感が何より嬉しかった。

研究と教育が重なった場所

ようやく教員生活に慣れ始めた頃、新型コロナウイルスが広がり、授業はオンライン中心へ変わっていった。

戸惑うことも多かったが、「どうすれば学生に伝わるか」を考え続ける姿勢だけは、塾講師時代と変わらなかった。高専では研究も続けられる。学生と一緒に実験を進め、学会で発表し、新しいテーマにも挑戦する。

研究者としての自分と、教育者としての自分。博士課程の頃は、どちらか一つしか選べないと思っていた。でも高専という場所は、その二つを両立できる場所だった。ようやく、自分らしい働き方を見つけた気がした。

遠回りだったから見えた景色

振り返れば、僕の人生は決して一直線ではなかった。

ゲームに夢中だった少年時代。音楽家を目指した中学生。軽い気持ちで進学した高専。研究に没頭した大学時代。塾講師、塾経営、そして母校の教員へ。

一見すると遠回りばかりのように見えるが、その一つひとつが今の自分につながっている。

ゲームは機械への興味を、バイオリンは努力を続ける力を、研究は論理的に考える力を、塾では人に伝える力を、経営では本当にやりたいことを教えてくれた。高専の教員となった今、そのすべての経験が授業や研究、学生との関わりの中で生きていると感じている。

教育に完成形はない。だからこそ、これからも研究を続け、新しい技術や時代の変化を学びながら、学生一人ひとりが自分らしいキャリアを描ける教育や環境を目指して挑み続ける。

ーー 完 ーー

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