孤独な研究室から見つけた、本当にやりたい仕事
「納得感」を頼りに選び続けたキャリアの物語
飲食店で育まれた効率思考、高専での学び、研究職としての違和感、 そして母校への帰還へ。自分が納得できる道を選び続けた先に、 今の働き方がつながっていくキャリアストーリーです。
人生の軸――カウンター越しの効率学
両親の店を手伝う中で、私の中に「最適解を探す感覚」が育っていった。
その街の夕暮れは、いつも出汁の香りと賑やかな笑い声と共にやってきた。
昭和の面影を残す商店街の片隅、両親が営む飲食店が私の「戦場」であり、最高の遊び場だった。ランドセルを放り出し、小さなエプロンをきゅっと結ぶ。それが、私にとっての放課後の儀式だ。
小学校低学年の頃には、すでに私は店の一員としてカウンターの内側に立っていた。同級生たちが塾やスポーツ少年団へ向かう中、私は湯気の向こう側で、自分より二倍も三倍も背の高い大人たちを相手に立ち回っていた。
「はい、お待たせしました! お熱いのでお気をつけて」重い皿を運び、空いたグラスを見逃さず、酔客のとりとめもない自慢話に相槌を打つ。知らない大人や、年の離れた常連客と会話することに、恐怖心など微塵もなかった。むしろ、学校という狭い箱の中では決して出会えない「得体の知れないエネルギー」に触れることが、たまらなく刺激的だったのだ。
そんな環境で自然と身についたのは、可愛げのある子供の振る舞い……ではなく、徹底した「効率」への執着だった。いかに一度の往復で多くの皿を片付けるか。どのお客さんにどのタイミングで声をかければ、店全体の回転がスムーズになるか。注文が重なった時、どの優先順位で動くのが最短ルートか。
「遊び」の延長線上にあったお手伝いは、いつしか私の中で高度なシミュレーションゲームへと変貌していった。この時、幼い私の脳裏に刻まれた「最適解を求める思考」が、数十年後の仕事において最大の武器になるとは、当時の私は知る由もない。
しかし、そんな「合理主義者」の片鱗を見せる私にも、唯一、計算の合わない時間があった。週に一度、自宅にピアノの先生がやってくる時間だ。
「何か一つくらいは習い事を」という親の親心で始まったピアノだったが、正直に言えば、私にとってそれは苦行に近かった。鍵盤に向かうよりも、店に出てお客さんと話し、効率的な配膳ルートを考えている方が、よほど「性に合っている」と感じていたからだ。
練習には全く身が入らない。だが、年に一度の発表会だけは冷酷にやってくる。そこで私は、持ち前の効率思考をここでも発動させた。先生が家に来る直前と、その最中だけ、驚異的な集中力で課題曲を仕上げる。最低限のコストで、最大限の結果を――。
「もう辞めたい」と思いながらも、決定的な「辞める理由」を見つけられないまま、気づけば小学校卒業までその鍵盤を叩き続けていた。引き際を見失うという、これもまた一つの人生の教訓だったのかもしれない。
高専への進路を決断したきっかけ
バスケ部での経験と、偶然見つけた高専という選択肢が未来を動かした。
中学校入学。選んだのは、バスケットボール部だった。
理由は単純だ。同年代より少しだけ背が高かったこと。日焼けをしたくなかったこと。そして、家の至る所に転がっていた父のバスケ用品。
しかし、体育館の重い扉を開けた瞬間、私は立ち尽くした。そこにいたのは、一人も顔見知りのいない、隣の小学校から来た見知らぬ集団。配膳のルートも、客との軽妙なトークも通用しない、剥き出しの身体能力と熱気が渦巻く異世界。
「……ここでは、誰も教えてくれない」店ではあんなに饒舌だった私が、初めて言葉を飲み込んだ。孤独と高揚が入り混じる中、私は唯一の「コーチ」である父に教えを請うことになる。
最初の頃は、チームの中でどこかよそ者のような感覚があった。だが、放課後の体育館で汗を流し、試合で同じ時間を共有するうちに、その距離は少しずつ縮まっていった。もともと人と話すことは嫌いではない。気づけば持ち前のコミュニケーションで部活仲間とも打ち解け、体育館には笑い声が混ざるようになっていた。
中学2年生になる頃には、試合に出ることにもすっかり慣れ、部活動も学校生活も充実してきた。そんな日々に手応えを感じ始めていた、まさにその頃だった。ふと、将来の進路という言葉が現実味を帯びてきたのは。
そしてある夏の日――学校から配られた高校一覧表を眺めていた私の目に、ひときわ異彩を放つ文字が飛び込んできた。「高等専門学校」高校ではない。なんだか不思議な響きだ。神戸市にある様々な高校が並ぶ中、ぽつんとその名前だけが浮いていた。
説明を読むと、家から近くて理系の学校、しかも就職にも強いらしい。もともと理科が大好きで、数学も人並みには好きだった私にとって、これ以上ない選択肢に思えた。周りの友達が「○○高校がいいかな」と迷っている中、私の心はすでに決まっていた。
オープンキャンパス当日、私は神戸高専の見学に向かった。校門をくぐった瞬間、目の前に広がったのは想像を遥かに超える光景だった。大きく綺麗な建物が整然と並び、まるで大学のようなキャンパス。中学校とは明らかに違う、アカデミックな空気が漂っていた。
そして、案内してくれる応用化学科の学生たちは全員、真っ白な白衣を身にまとっていた。その姿だけで、胸が高鳴った。実験室の扉を開けると、そこには憧れていた世界があった。フラスコで色とりどりの液体を混ぜる様子、整然と並んだ試験管、精密な実験器具の数々。テレビで見た科学者の世界が、目の前に広がっている。
「この学校、良いじゃん!」心の中で叫んでいた。いや、もう決めていた。「私、この応用化学科に入る」その瞬間、私の進路は一点に絞られた。周りがまだ迷っている中、私だけは既にゴールを定めていた。帰りの電車の中で、私は何度もパンフレットを見返した。白衣を着た自分の姿を想像し、実験室で研究する日々を夢見た。
90分の壁と、予想外の日々
女子の多い教室に安心したのも束の間、90分授業と専門科目の壁が立ちはだかった。
4月、期待に胸を膨らませて高専の門をくぐった私を待っていたのは、思いもよらない光景だった。
「女子、多くない?」工業系の学校と聞いていた高専は、男子ばかりで女子は数人というイメージだった。実際、機械工学科や電気工学科の教室からは男子の声が目立っていた。ところが、私のクラスは40人中20人が女子。応用化学科だけは空気がまるで違っていた。化学という分野の特性なのか、女子の割合が高かったのだ。友達は作りやすそうだと安心したのも束の間、すぐに別の壁が立ちはだかった。
それが90分授業だった。中学では60分だった授業が一気に1.5倍になり、最初の数週間は本当にきつかった。30分を過ぎる頃までは集中できても、60分を超えると意識が遠のく。窓の外を見てしまう自分に焦りながらも、体がついていかない。
しかも理系科目の多さは想像以上だった。理科は好きだったが、数学は得意というほどではない。その数学が週に3回もあり、進む速度も速い。先生の説明を一瞬聞き逃しただけで、その後の内容が途端に分からなくなる。
テストの点数もギリギリ。単位を落としかけたこともあった。「このままじゃまずい」――焦った私は、すでに始めていた部活の先輩たちに助けを求めた。
「テスト、どうやって乗り切ってますか?」先輩たちは優しく教えてくれた。テストの傾向、先生ごとの特徴、乗り切るコツ。先輩たちのアドバイスに救われながら、私は何とか進級することができた。この経験が、後に「人に頼る力」の大切さを教えてくれた。
一人で抱え込まず、周りに助けを求める。それは甘えではなく、成長するための重要なスキルだった。
部活は、迷わずバスケットボール部を選んだ。中学の先輩が高専のバスケ部にいると聞いて、メールで連絡を取り、見学に行った。体育館に入ると、懐かしいボールの音とシューズの擦れる音。そして、その場で入部を決めた。
練習は週5日、放課後2時間以上。過酷な練習の中でも、仲間と汗を流す時間は何にも代えがたかった。パスを回し、シュートを決め、声を掛け合う。その時間だけは、勉強のことも単位のことも忘れられた。
そして迎えた高専生だけが出場できる大会「近畿高専大会」。私たちは決勝まで進んだ。最後の1分、1点差。必死に追いかけたが、届かなかった。ブザーが鳴った瞬間、全国への道は閉ざされた。
悔しくて涙が止まらなかった。でも、その悔しさ以上に、仲間と共に戦った日々が私の中に深く刻まれた。部活と勉強、そして家の店の手伝いとは違う初めてのアルバイト。忙しいながらも、充実した高専生活を送っていた。そして4年生になり、私は新たな選択を迫られることになる。
揺れる進路――就職か、それとも
就職一筋のはずだったのに、展示会を回るほど自分の本音が見えなくなっていった。
高専4年生の春。周りが次々と進路を決めていく中、私は企業の展示会に足を運んでいた。
「就職一筋」――そう決めて高専に入ったはずだった。だから、迷う理由なんてないはずだった。高専の最大の魅力は、就職の強さ。5年で卒業して、すぐに大企業で働ける。それが私の描いていたプランだった。
でも、展示会に行けば行くほど、私の中で疑問が膨らんでいった。広い会場に化学メーカー、製薬会社、食品メーカー。どのブースでも、人事担当者が笑顔で説明してくれる。どれも魅力的に見える。でも、どれもピンとこない。心が動かない。
「私は、何がやりたいんだろう」「どんな仕事に就きたいんだろう」展示会から帰る電車の中で、いつもそんなことを考えていた。友達は「○○社、良さそうだったね」「給料も良いし、福利厚生もしっかりしてるらしいよ」と話している。でも、私の心は空っぽだった。
インターンの時期になっても、興味のある会社は見つからなかった。周りが「インターン、どこ行く?」と盛り上がる中、私は何も決められなかった。結局、部活の大会や練習に参加できて、アルバイトにも行けるよう、家から通える場所を選んで応募するだけだった。心から「行きたい」と思って選んだわけじゃない。
これは、まさに多くの20代が直面する「やりたいことが分からない」という葛藤だった。
そんなある日、高専の先輩から話を聞く機会があった。すでに就職して2年目の先輩だった。
「本科卒だと、化学系は製造ラインに配属されることが多いよ」「品質管理の部署に入れるかどうかは、入ってみないと分からない」私が興味を持っていたのは、品質管理の仕事だった。製品の安全性を守り、データを分析し、改善策を考える。そんな仕事に憧れていた。
実験室で学んだ知識を活かしながら、社会に貢献できる仕事。でも、本科卒でいきなりその部署に配属される保証はない。運次第。「それって、納得できるのか?」心の中で、小さな声が囁いた。あの頃と同じ声。ピアノを辞めたいと思っていた頃と同じ、心の奥底からの違和感。
「それなら……」ふと、頭をよぎった選択肢があった。高専をもう2年だけ通える「専攻科」への進学。もう少し勉強を続けて、確実に品質管理の仕事に就ける道を探す。そうすれば、自分で進路をコントロールできる。運任せじゃなく、自分で選べる。
でも、他の大学に行くのは違う。なぜなら私が高専を選んだ理由は、「高専からの就職の強さ」に惹かれたからだ。そのうまみは十分に活用したい。悩んだ末に出した答えは、専攻科進学だった。
この決断こそが、「自分で選べる環境にいたい」という私の価値観の表れだった。周りに流されず、自分の納得できる道を選ぶ。それは勇気のいる選択だったが、後悔しない選択でもあった。
専攻科試験の特徴――そしてコロナ
積み重ねてきた勉強が、進路変更という局面で思わぬ形で自分を救ってくれた。
急な進路変更。しかし、時間はあまりなかった。
私は急いで専攻科の受験条件を調べ始めた。高専の図書館でパンフレットを読み、先輩に話を聞き、情報を集めた。当時の推薦条件は、以下の通りだった。
・全教科の平均が80点以上
・クラス順位が上位
・TOEICの点数が400点台以上
しかも、面接試験はなく書類選考のみ。条件さえ満たせば、ほぼ確実に進学できる状況だった。幸い、私は就職志望だったとはいえ、勉強は真面目にやってきた。単位ギリギリの時もあったが、先輩たちの助けを借りながら何とか乗り切ってきた。クラスの順位も悪くない。平均点も条件をクリアしている。
「勉強、頑張ってきてよかった……」そう心から思ったと同時に、こうも感じた。「人生、何があるか分からないな」もし、あの時手を抜いていたら。もし、単位を落としていたら。今、この選択肢すら選べなかった。やるべきことをやってきたからこそ、選べる道がある。
やるべきことはTOEICだけ。英語は相変わらず苦手だったが、TOEICに集中すればいい。そう割り切って、私はひたすら対策問題を解き続けた。毎日、リスニングの音声を聞き、文法問題を解き、単語を覚えた。授業と授業の隙間時間を見つけてはTOEICの勉強に費やした。
苦手な英語と向き合う日々。最初は全く聞き取れなかった英語が、少しずつ耳に入ってくるようになった。そして受験日。緊張しながらもマークシートを順調に埋めていく。結果は――無事、条件を満たした。専攻科への進学が決まった瞬間だった。
この経験が教えてくれたのは、「今やっていることの意味は、後になって分かる」ということだった。
「また、新しい学生生活が始まる」そう思った矢先――世界を揺るがす出来事が起きた。新型コロナウイルス。ニュースで連日報道される感染者数。4月から始まる予定だった学校は延期され、3カ月間は家での生活を余儀なくされた。オンライン授業、週に一度の研究室通い。慣れない日々が続いた。
画面越しに見る先生の顔、チャットで交わされる質問、マイクをオンにして発表する緊張感。すべてが初めてで、すべてが不自然だった。誰もが経験したことのない状況に、不安と孤独が押し寄せてくる。
でも、不幸中の幸いだったのは、大学編入組とは違い、すでに知っている学校で、同級生も6人ほどいたこと。孤独や不安を感じることなく、何とか乗り切ることができた。
「今日、研究どう?」「オンライン授業、眠くなるよね」そんな他愛もない会話が、どれだけ救いになったか。危機の時こそ、人との繋がりの大切さを実感した。一人では乗り越えられなかったことも、仲間がいれば乗り越えられる。
そうして気づけば、専攻科の2年間はあっという間に過ぎていった。そして就活の時期が刻一刻と迫る。
高専専攻科の就活
希望していた仕事に近づいたはずなのに、社会に出た瞬間、また予想外の分岐が現れた。
コロナ禍の就活は、想像以上に大変だった。
展示会も会社見学もできない。情報はすべてオンライン。企業のホームページを見て、説明会の動画を見て、エントリーシートを書く。企業の雰囲気も、職場の様子も、実際に見ることができない。
「本当にこの会社でいいのか?」そんな不安を抱えながら、それでも私には譲れないものがあった。「品質管理の仕事に就く。」そのために専攻科に進学したのだから、今度こそ自分の希望する道を選びたかった。製造ラインじゃなく、品質管理。データを分析し、改善策を考え、製品の安全性を守る。そんな仕事に就きたい。
そんな中、たまたまマッチした企業があった。大手化学メーカー。しかも、希望していた「品質管理」の部署もある会社。すぐに私は応募し、オンラインで面接を受けた。憧れていた品質管理への想いを思う存分伝えたことで、就活はとんとん拍子に進んでいった。
そしてとうとう一番聞きたかった言葉が聞けた。「ぜひ、うちに来てください!」心から安堵した。「やった……!」ようやく、自分の望む道が見えた気がした。高専に入った意味、専攻科に進学した意味、これまで選択してきた道が間違いではなかったと心からそう思えたのだ。
こうして、私は社会人として最高の一歩を踏み出すことになった。新天地は大阪。新しい仕事、新しい環境。一人暮らしも初めて。期待と不安が入り混じりながら、私は新生活の準備を始めた。
そして4月。入社式の日、スーツを着た新入社員たちが並ぶ。私もその一人だった。入社してすぐ、新入社員研修が始まった。会社の理念、ビジネスマナー、安全教育。そして毎日のように課題が出され、レポートを書く日々。正直、大変だった。でも、私は丁寧に、分かりやすく、論理的にまとめることを心がけた。高専で学んだ実験レポートの書き方、論文の構成力。それらがここで活きた。
そして数週間後、そんな頑張りが思いがけない評価を受けることになった。研究職の上層部から「君のレポート、すごく分かりやすいし、見やすくていいね」と。これまでそんなにレポートで褒められたことがなかったから、まさかレポートの書き方だけでこんなに褒められるとは思ってもみなかった。
そして、次の言葉が私の人生を大きく変えることになる。「品質管理じゃなくて、研究職に来ないか?」
「え――!?」頭が真っ白になった。私は、3年間ずっと研究をやってきた。高専の専攻科では、毎日のように実験し、データを取り、論文を書いた。正直、もう研究はいいかなと思っていた。だから品質管理を選んだのに。
「研究じゃなくて、品質管理がやりたいです!」本当はそう言いたかった。でも、言えなかった。上層部の期待の眼差し、人事担当者の笑顔。断れる雰囲気ではなかった。新入社員が、会社の方針に逆らえるはずもない。
「これも、挑戦だ」そう自分に言い聞かせて、私は研究職に配属された。この瞬間、私が専攻科で2年間かけて描いたキャリアプランは、音を立てて崩れ去った。こうして、また予想外の道が始まった。人生は、自分の思い通りにはいかない。その現実を、私は社会人1年目で突きつけられることになった。
研究者の働き方――理想と現実のギャップ
安定した環境の中で、少しずつ「自分が本当に求める働き方」が見えていった。
研究所での日々は、想像以上に静かだった。
朝、研究室に入る。白衣を羽織り、実験器具を準備する。一日中、ほとんど人と話さない。会うのは研究所の中にいる、いつもの顔ぶれだけ。静かな実験室で、一人黙々とデータを取り、分析し、考察する。
機械の音とキーボードを叩く音だけが響く。時々、遠くで誰かが話す声が聞こえる。でも、それも聞き慣れた声ばかり。毎日、同じ顔と、同じ空間で。
会社が借り上げた寮に住んでいたので、ランチも夜も、年の近い同期や先輩・後輩と過ごすことが多かった。賑やかで、温かくて、今でも定期的に会うほど大切な仲間たちだ。でも、ふと気づいたのだ。「この3年間、新しい出会いがほとんどなかった」と。
職場も、寮も、いつも同じメンバー。その輪の外に出ることが、ほとんどなかった。
もともと人と話すことが好きだった私にとって、この環境は苦痛だった。飲食店で賑やかに働いていた子供時代。お客さんと会話し、笑い、注文を受ける。あの活気に満ちた空間。バスケ部で仲間と汗を流した学生時代。声を掛け合い、励まし合い、共に戦った日々。あの頃の私は、どこに行ったんだろう。
「このままでいいのか?」そんな疑問が、日に日に大きくなっていった。でも、すぐには答えが出なかった。だって、これが「安定」なのだから。大手企業、研究職、安定した給料。周りから見れば、羨ましがられる立場。同期は「大手に入れてよかったね」「安定してるし、将来安心だね」と言う。親も喜んでいる。
ある日、ふと鏡に映る自分を見た。白衣を着た私は、確かに「研究者」の姿をしていた。でも、その表情はどこか曇っていた。心から楽しんでいる顔じゃない。義務感で仕事をしている顔だ。
「納得できない」胸の奥で、小さな声が叫んでいた。あの頃と同じ声。ピアノを辞めたいと思っていた頃と同じ、心の奥底からの違和感。飲食店のカウンター越しに感じていた、あの「効率」と「人との繋がり」。それが、ここにはない。
自分が望んでいた品質管理の仕事ではなく、もう十分やったと思っていた研究の日々。しかも、一人で黙々と向き合う孤独な環境。これは、私が求めていた未来ではなかった。
でも、せっかく大手企業に就職できたのに、すぐに辞めるなんて言えない。親も喜んでくれた。周りも羨ましがった。それなのに、「合わないから辞めます」なんて、甘えだと思われるんじゃないか。贅沢な悩みだと言われるんじゃないか。せっかく専攻科まで進学して、努力して掴んだ内定なのに。
葛藤する日々が続いた。これは、多くの社会人が経験する「こんなはずじゃなかった」という現実だった。理想と現実のギャップ。周りの期待と自分の本心のズレ。でも、それを口にすることすらできない。そんなある日、私はある行動を起こすことになる。それは、自分でも予想外の一歩だった。
社会人3年目の心境と転機
安定を手放す怖さよりも、納得できないまま働き続ける怖さの方が大きくなっていった。
ある週末、私は久しぶりに実家へ帰った。
新幹線を降りて神戸の街を歩くと、懐かしい空気が身体にすっとなじんだ。商店街の先に見える実家の店は、昔と変わらず賑やかだった。
「おかえり。仕事、どう?」母にそう聞かれて、私は「うん、まあ……」と曖昧に返すしかなかった。自分でも分かるほど、声に力がなかった。
研究職が悪いわけではない。大手企業で、給料も安定していて、福利厚生も整っている。周りから見れば恵まれた環境だったと思う。それでも、心は満たされなかった。朝起きて浮かぶのは期待ではなく、「今日も仕事か」という義務感だった。
そこでようやく気づいた。私が苦しかった本当の理由は、研究そのものよりも、「自分で選んでいる感覚」が持てないことだった。与えられたテーマを、会社の方針に従って進める日々。技術は使っていても、自分の意志で何かを生み出している実感がなかった。
「納得できない」その感覚は、ずっと昔から私の中にあった。いつだって私は、「誰かに決められる人生ではなく、自分で選べる環境にいたい」と思っていた。
ただ、私は入社当時から自分に一つの約束を課していた。「どんなことも、3年は続けてみよう」すぐに辞めるのは甘えだと思っていたし、続ければ何か見えてくるはずだと信じていた。
だから研究所でも、新しい分析手法を学び、論文を読み、学会にも参加した。知識も技術も増え、上司から評価されることもあった。けれど、それは「成長」ではあっても、「充実」ではなかった。3年経っても、朝の気持ちは変わらなかった。一人で実験し、静かな研究室でデータと向き合う毎日は、やはり私が求める働き方ではなかった。
そして3年が経った時、私は静かに決めた。「転職しよう」と。ただし問題もあった。辞めたい理由は明確なのに、次にやりたいことが見えていなかったのだ。心の中にあったのは、「神戸に帰りたい」「人と関わる仕事がしたい」という思いだけ。求人を見ても、営業、企画、人事、どれもしっくりこない。化学の知識を活かしながら、人と関われる仕事なんてあるのだろうか。
そんな焦りと不安の中でも、私は転職サイトで職務経歴を入力しながら、「人と関わる仕事」「自分で考えて動ける環境」といった言葉を並べていく。まだ答えは見えていなかった。それでも、自分の違和感を無視せずに動き始めたことだけは確かだった。安定を手放す怖さよりも、納得できないまま働き続ける怖さの方が、少しずつ大きくなっていた。
そうして私は、「納得感」というコンパスを握りしめたまま、次の道を探し始めた。そんなある日、思いがけない転機が訪れることになる。
自分の理想に合った意外な仕事
母校を訪れた何気ない一日が、自分にぴったりの仕事との出会いにつながった。
久しぶりに高専を訪れた。
OGとして、バスケ部の練習に参加しに行くためだった。校門をくぐると、懐かしい景色が広がっていた。あの実験棟、あの体育館、あの食堂。7年間通った学校。すべてが、記憶の中にある。校舎の外壁は少し古びていたが、それがまた懐かしさを感じさせた。
体育館に入ると、後輩たちが練習していた。ボールの音、シューズの擦れる音、声を掛け合う声。懐かしい光景に、胸が熱くなった。
練習を見た後、校舎を歩いていると、ある人とばったり出会った。高専卒の先輩で、昔は企業でも働いていたが、今は色々あって事務員として働いている方だった。学生時代、何度か話したことがある先輩。
「久しぶり! 今、何してるの?」近況を話すと、先輩は少し考える素振りを見せた。そして、こう切り出した。「学校で働いてみない?」突然の提案に、私は言葉が出なかった。でも、心のどこかで、その言葉が響いた。「学校で働く?」そんな選択肢、考えたこともなかった。
「ちょうど、事務員の募集があるんだよね。高専卒、神戸で働きたいなら、ぴったりだと思うんだけど」学校で働く。7年間通った、愛着のある高専で。確かに、その選択肢は考えたこともなかった。でも、言われてみれば悪くない。いや、むしろ――。
「人とのつながりもすごく大事な仕事だし、企業とやり取りすることも多いから、やりがいはあると思うよ」人とのつながり。その言葉に、心が動いた。研究職で一番欠けていたもの。一人で黙々と実験するのではなく、人と関わりながら働ける仕事。しかも、高専という自分が学んだ場所で、次の世代を支えることができる。
それは、まさに私が探していた仕事だった。研究職でもなく、営業でもなく、人事でもない。高専という特殊な教育機関だからこそできる、唯一無二の仕事。
「やってみたいです」二つ返事だった。迷いはなかった。むしろ、ようやく見つけた気がした。自分が本当にやりたかったことを。
もちろん、正式な面接もあった。でも、7年間通った学校、卒業生としての実績、化学の専門知識。それらが評価され、スムーズに採用が決まった。まさか、自分がもう一度、職員として高専に戻ってくることになるとは――。人生、本当に何があるか分からない。でも、この選択は間違っていない。そう確信していた。
心の奥底で、「納得感」が、はっきりとこの道を指し示していたから。こうして、私の新たな挑戦が始まろうとしていた。これは、キャリアチェンジという大きな決断だった。安定した大手企業を辞めて、母校の職員になる。周りからは「もったいない」と言われるかもしれない。でも、私には確信があった。この道こそが、自分が納得できる道だと。
そして高専で働く今
遠回りに見えた経験のすべてが、今の仕事で一本の線につながっていった。
高専職員として働き始めて、私はすぐに思った。
「これだ」仕事の中心は、学生と深く関わることではなく、外部企業に高専を知ってもらうための企業訪問、説明会の開催、求人票の整理、インターンシップの調整。電話をかけ、メールでやり取りし、訪問先で名刺を交換し、高専の魅力を伝える。
一日中、人と関わる毎日は、孤独な研究室で過ごしていた日々とは正反対だった。人と話し、反応を受け取り、時には感謝される。その感覚の中に、私がずっと求めていた働き方があった。実家の飲食店で感じていた活気や、バスケ部で味わった一体感が、ここには確かにあった。
しかし、働き始めてすぐに驚かされたこともある。高専の制度が、社会にほとんど知られていなかったのだ。高専生を採用している企業でさえ、「高専は4年制だっけ?」「専攻科って何?」と尋ねてくる。私にとっては当たり前だった仕組みが、外の世界では当たり前ではなかった。7年間学んだ場所の価値が、まだ十分に伝わっていない。その現実が、私の中に新しい想いを生んだ。
「この学校の魅力を、もっと多くの人に知ってもらいたい」その気持ちは、働くうちにどんどん強くなっていった。高専は、5年間で専門知識を学び、実験や実習を通して実践力を身につける、他にはない教育機関だ。専攻科に進めば、さらに研究を深めることもできる。その価値を自分自身が体験してきたからこそ、私は企業に対して、自分の言葉で高専の魅力を伝えることができた。
そして実際に、私が説明した企業で高専生の採用が始まった時、自分の仕事が誰かの未来につながったことを実感した。高専への恩返しだと思って始めた仕事は、いつしか私の使命になっていた。
研究職の頃に感じていた違和感は、もうなかった。飲食店で身についた対人感覚、バスケ部で学んだ仲間との絆、専攻科で培った論理的思考、研究職で知った孤独と違和感。そのすべてが、今の仕事につながっていた。遠回りに見えた経験も、決して無駄ではなかったのだ。
周りが正しいと言う道をただただ進むのではなく、自分が納得できる道を選ぶ。その積み重ねが、今の私をここまで連れてきた。
なのでもし今、「このままでいいのか」とキャリアに迷いを感じている人がいるなら、その違和感を無視しないでほしいと思う。夢が明確でなくてもいい。やりたいことが今すぐ見つからなくてもいい。ただ、自分がどう在りたいかだけは見失わないでほしい。遠回りに見える経験も、いつか必ず意味を持つ。点と点が線でつながる瞬間は、きっと来る。
私はこれからも、愛着のある母校のために、そして次の世代のために、「納得感」というコンパスを信じて歩き続ける。そう信じて、今日もまた高専の魅力を知ってもらうべく様々な形で情報発信をし続ける。
ーー 完結 ーー
ひまわりさんと実際に話してみる
高専進学、専攻科進学、研究職での違和感、転職、そして母校で働く今について、
実際にキャリアトーク予約で相談できます。