留年、就職、転機の中で見えたキャリアのリアル
流されながらも、選び直し続けたキャリアの物語
水泳と勉強に追われた幼少期、高専受験、高専での挫折、就職、異動、転職、そして学校職員として働きながら新しい挑戦へ。深く考えずに進んだように見える道の中で、カツオさんが少しずつ自分の選択を取り戻していく物語です。
人生の軸―当たり前に流れていった日々
やることが決まっている毎日の中で、疑問を持たないまま結果を積み重ねていった。
気づけば予定で埋まっていた毎日
教育熱心な両親のもとで生まれた僕は、気がつけば「やることが決まっている生活」の中にいた。物心ついた頃から水泳に通い、少し大きくなると塾やくもんにも通うようになった。特別に何かを選んだ記憶はない。ただ気づけば、それが日常になっていた。
朝起きて学校に行き、帰ればそのまま水泳へ向かう。練習が終われば塾に移動し、帰宅する頃には夜遅い。そんな流れが毎日の形になっていた。平日も土曜日も変わらず、日曜日は大会。朝から夕方まで泳ぎ続け、そのまままた次の週が始まる。周りの友達が放課後に遊んでいる姿や、ゲームの話で盛り上がっている様子を横目に、自分だけはその輪に入ることなく次の場所へ向かう。それでも特別何かを思うことはなかった。それが普通だと思っていたし、疑う理由もなかった。
比べることのない環境
水泳も勉強も、それなりに結果は出ていた。泳げばタイムは縮まり、テストを受ければ点数は取れる。クラスでは委員長を任されることも多く、周りからはしっかりしていると言われることが増えていった。その言葉をどう受け取っていたかは、正直よく覚えていない。ただ一つ言えるのは、自分の中で「できている側」にいるという感覚があったことだと思う。誰かと比べて優れているかどうかではなく、今の環境の中で困ることがなかった。だからこそ、立ち止まる理由もなかった。
違和感に気づかないまま
今振り返ると、不思議なくらい自分で考えていなかったと思う。やることは決まっていて、それをこなせば次に進める。選ぶというより、流れていく感覚に近かった。しんどさを感じなかったのも、慣れていたからなのか、それとも考える余裕がなかったからなのかは分からない。ただ、そのときの自分は疑問を持たないことに違和感を持っていなかった。結果が出ている限り、このままでいい。どこかでそう思っていた気がする。けれどその感覚は、自分で選んだという実感とは少し違っていた。まだその違いに気づくこともなく、ただ同じ毎日を繰り返していた。次に何が起こるかも知らないまま。
分岐点——「決める」というより、流れていった選択
結果が出ていたからこそ、自分で強く選ぶ前に進路が流れていった。
結果の先にあった進路
中学に入っても生活のリズムは変わらなかった。水泳と塾、その繰り返し。結果は出続けていて、水泳では県大会で負けることは少なくなり、最終的には全国大会で優勝という形まで辿り着いた。周りから見れば、順調に進んでいるように見えていたと思う。
その結果が、進路の選択肢を一気に広げた。スポーツ推薦の話もいくつかあり、本来ならここで一度立ち止まり、自分の将来を考える場面だったのかもしれない。ただ当時の自分には、「選ぶ」という感覚があまりなかった。できることを続けていれば、その先は自然と決まる。そんな感覚のまま、時間だけが進んでいった。家では勉強を優先する考えが強く、水泳よりも進学という流れができていた。気づけば、スポーツで進む道は選択肢から外れ、「勉強で進学する」という方向に進んでいく。自分で納得していたのかは分からない。ただ、大きく反発する理由もなかった。
高専という選択肢
そんな中で浮かび上がってきたのが「高専」という進路だった。母の考えもあり、一般的な高校とは違う道として以前から話には出ていた。さらに祖父が建築関係の資格を持っていたこともあり、なんとなく建築という分野も身近に感じていた。ただ、自分自身が何かに強く興味を持っていたわけではない。建築に対しても同じで、「面白そう」という程度の感覚だった。それでも明石高専の建築学科は珍しい存在で、どこか引っかかるものがあった。
一方で、水泳は続けたいという気持ちもあった。当時の高専は部活動にそこまで力を入れていない印象もあり、進学先としては少し迷いがあった。普通高校に進めば、競技も続けやすい。そう考えると、高専という選択はどこか中途半端にも思えた。
軽いきっかけで決まった進路
そんな迷いの中で、進路を大きく動かしたのは意外なきっかけだった。同じ種目のライバルの母親が、自分の母と試合会場で話すようになり、「神戸高専に行く」という話が出た。その流れで「一緒にどう?」と誘われた。後日、母からその話を聞いたときも、特別な感情はなかった。ただ、当時の自分はまだ進路を決めきれていなかったこともあり、「水泳をやめなくていいならいいか」という軽い気持ちで受け入れた。
気づけば中学3年の夏の終わり。周りがすでに進路を固めている中で、自分はようやく方向が見え始めた段階だった。しかも学科すら決まっていない。焦りがあってもおかしくない状況だったが、不思議とそこまでの危機感はなかった。
こうして自分の進路は、「深く考えた結果」ではなく、「いくつかの流れが重なった先」で決まっていった。自分で選んだという実感はまだ薄いまま、それでも確実に次のステージへと進もうとしていた。
高専受験——間に合わないはずのスタート
遅すぎるスタート、崩れた前提、それでも推薦という道で一歩先へ進んだ。
遅すぎた決断
高専を目指すと決めたのは、中学3年の8月の終わり。周りはすでに志望校も固まり、過去問を解き始めている時期。そんな中で、自分はようやくスタート地点に立ったような状態だった。しかも学科すら決まっていない。普通なら焦りを感じる場面だったと思う。ただ、そのときの自分には不思議と余裕があった。塾で受けていた模試では、他の志望校は安定してA判定。高専がダメでも行き先はあるという感覚があったことで、追い込まれることがなかった。「行けたらいい」その程度の温度感で受験を捉えていた。
学科についても、深く考えていたわけではなかった。なんとなく都市工学や建築かと思っていたが、決めきれないまま時間だけが過ぎていった。そんな中で転機になったのは、高専の水泳練習に参加したときだった。顧問の先生に進路の相談をしたとき、返ってきたのは一言だけ。「神戸高専に行くなら電気科に行きなさい」理由はなかった。ただ、その一言で決まった。今思えばあまりにも軽い決め方だったが、当時の自分にとっては「決まること」の方が重要だった。
一瞬で崩れた前提
まずは、とりあえず赤本を開くところから始まり、最初の数学の問題を見た瞬間、手が止まった。図形の問題だったが、どこから手をつければいいのか全く分からない。解き方どころか、考え方すら浮かばなかった。「あかん、無理や」その一問で理解した。これは今までの延長では通用しない。積み上げてきたはずの自信が、音もなく崩れた感覚だった。
その時点で一般入試での合格は非現実的なものとなった。残る道は「推薦」のみ。ただ、そこに対しても特別な覚悟があったわけではない。焦るというより、ただただ選択肢が絞られたという感覚の方が近かった。
根拠のない自信
推薦しか残されていないにも関わらず面接対策のやる気が起きない。唯一練習したのは、知り合いの父親に相手をしてもらったその一回だけ。それでも不安はあまりなかった。元々人前で話すのは得意な方だったし、これまで積み重ねてきた成績もあったからだ。水泳での実績、委員長としての経験、そのまま話せば伝わると思っていた。
推薦当日も、緊張よりも冷静さの方が強かった。他の受験者の話を聞く余裕すらあり、そのたびに自分の方が内容はあると感じていた。もちろん話の内容は他の受験者もしっかりしている。ただ、出てくる言葉は気難しい工業用語ばかりで、一つもその人自身の想いが感じられなかった。
結果は合格。倍率は4倍を超えていたと後から知ったが、その時の実感はあまりなかった。ただ、「なんとかなった」という感覚だけが残った。こうして進路は決まった。準備万全だったわけでも、強い意思があったわけでもない。それでも確実に一歩先へ進んだ。その選択がこれからどう影響するのか、この時の自分はまだ何も分かっていなかった。
高専生活——想像と違っていた現実
これまでのやり方では通用しない場所で、落ちないためのやり方を探し始めた。
はじまりの違和感
4月、異彩を放つ高専の校舎を目の前に校門をくぐった。受験が終わってからも塾に通わされていたこともあり、多少の不安はあったが、どこかで「何とかなるだろう」と思っていた。電気工学に強い興味があったわけではない。ただ理科の延長のような感覚で捉えていて、これまでと同じようにやればついていけるはずだと考えていた。
最初に感じたのは、授業の密度だった。90分という時間の長さもそうだが、その中で進む内容が想像以上に速い。黒板に書かれる式や説明を追いかけるだけで精一杯で、気づけば理解が追いついていないまま次に進んでいく。周りを見ても余裕そうにしている人もいて、その差がじわじわと気になり始めていた。
崩れていく前提
最初のテストでその違和感ははっきりした形になる。高専最初の中間試験で返ってきた数学点数は42点。見慣れない数字だった。中学時代はどの教科も80点を下回ることがほとんどなかった自分にとって、その結果は単なるミスではなく、前提が崩れた瞬間だった。
授業を聞いても理解できない感覚が続く。どこが分からないのかすら言葉にできないまま、時間だけが過ぎていく。これまでなら塾で補えていた部分も、自分でやるしかない。だがそのやり方が分からない。気づけば勉強そのものに手が伸びなくなっていた。さらに通学に片道1時間半かかる生活、水泳の練習も変わらず続けていたことで、時間にも余裕がなかった。何か一つに集中するというより、どれも中途半端なまま日々が流れていく感覚だった。
落ちないためのやり方
それでも完全に諦めたわけではなかった。進級するためにはどうすればいいのか、その一点だけを考えるようになった。試験の配点や提出物の比率を見ながら、点数をどう積み上げるかを計算する。理解することよりも、落ちないための方法を探すようになっていった。分からない科目は先生に聞きに行き、提出物は必ず出す。最低限のラインを超えるための動きだけは続けた。水泳も続けていたが、それが気分の切り替えになっていたのかもしれない。
周りと同じようにできている感覚はもうなかった。ただ、それでも止まることはなかった。なんとか繋ぎながら進んでいく。その繰り返しの中で、自分の中の基準が少しずつ変わっていくのを感じていた。この場所でやっていけるのかという問いに、まだ答えは出ていなかった。ただ一つ言えるのは、これまでと同じやり方では通用しないということだけだった。
挫折——繋いだ先にあった、留年という現実
なんとか繋いできた日々が一度止まり、初めて考える余白が生まれた。
崩れきらないままの継続
理解できている実感はほとんどないまま、それでも日々は続いていった。テストのたびに点数は低く、納得できる結果はほとんどなかったが、不思議と完全に崩れることもなかった。理由ははっきりしていて、「落ちないためのやり方」を覚えてしまったからだった。試験の配点、提出物、再試や補修の仕組み。どこで点を拾い、どこを捨てるかを考えながら、最低限のラインを越えることだけに集中する。理解するよりも、進級すること。その基準に切り替わってからは、なんとか3年までは進むことができていた。
水泳も変わらず続けていた。以前のように結果を追い続ける感覚ではなかったが、そこにいる時間はどこか落ち着ける場所でもあった。勉強だけに向き合っていたら、どこかで止まっていたかもしれない。そう思える程度には、自分の中でのバランスになっていた。
一気に押し寄せた現実
4年に上がったとき、そのバランスは一気に崩れた。専門科目の難易度はこれまでとは比べものにならず、科目数も一気に増える。授業を聞いても理解できない感覚はさらに強くなり、ついていくというより、ただその場にいるだけのような時間が増えていった。テストの平均点が20点台という科目も出てきた。その中で自分は一桁を取ることも珍しくなくなっていく。これまで「なんとかする」で繋いできたやり方が、明らかに通用しなくなっていた。
それでも止まるわけにはいかなかった。レポートを出し、補修を受け、再試を繰り返す。気づけば400ページ近いレポートを提出していたこともあった。友達と過去問を共有しながら、少しでも可能性のある部分に絞って勉強する。それでも結果は変わらなかった。
はじめて止まった瞬間
留年。頭では予想していたはずなのに、言葉として突きつけられると、重さが違った。担任の部屋から出た瞬間に父親に思いっ切り叱られた。言葉は覚えていない。ただ、自分の中で何かがはっきりした気がした。「やっぱり無理だったか」そんな感覚だった。
ただ、不思議と完全に落ち込むこともなかった。同じように留年した仲間がいたことが大きかったのかもしれない。教室に残ったとき、一人じゃないという事実だけで少しだけ救われた。後輩たちも、気を使いながらも変わらず接してくれた。その距離感に助けられていた。
それでも現実は変わらない。これまでなんとか繋いできたものが、ここで一度途切れた。その事実だけが残った。でも同時に、どこかで思っていた。このまま進み続けていたら、もっと苦しくなっていたかもしれないと。止まったことで、はじめて考える余白ができた。これからどうするのか、何を選ぶのか。答えはまだ何もなかった。ただ、ここから先は今までと同じようにはいかない、そんな感覚だけがはっきりと残っていた。
就活——留年した自分にも、進める場所はあるのか
行きたい会社が見つからない中、偶然の見学が少しだけ未来を見せてくれた。
留年が決まってからの1年
留年が決まってからの1年は、思っていたより静かに過ぎていった。同級生だった友達は先に卒業学年へ進み、自分だけが一つ下の学年に混ざる。周りの視線を勝手に気にしていた時期もあった。ただ、実際にはそこまで大きく何かが変わるわけでもなかった。同じように留年した仲の良い友達もいたし、後輩たちも必要以上に距離を取ることはなかった。むしろ気を使いながらも、これまで通り接してくれていた。その空気にかなり救われていたと思う。そんな中でも、時間は止まってくれない。周りが進路を決め始める中で、自分も卒業後のことを考えないといけなかった。
行きたい会社が見つからない
成績はずっと下の方だったこともあり、進学という選択肢は最初から頭になかった。自然と就職一本で考えていた。ただ問題だったのは、「ここで働きたい」と思える会社がなかったことだ。8月にはインターンにも行ったし、企業見学もいくつか参加した。でも、どこへ行ってもピンとこない。結局、なんだかんだ地元の会社に入るんかな。そんなふうにぼんやり考えながら、決めきれないまま時間だけが過ぎていった。年が明け、本格的に寒くなってきた2月。前年度の補修を受けていたとき、たまたま就職担当の先生と話す機会があった。その時に出てきたのが、よく高専の先輩たちが就職していた「某総合電機メーカー」の話だった。
「今ちょうど人気の営業所から求人来とるぞ。給料もかなりいい」先生はそのまま続けた。「せっかくやから、一回見学行ってこい」
少しだけ未来が見えた日
正直、その会社のことはほとんど知らなかった。でも断る理由もなく、「じゃあ行きます」と軽く返事をした。ただ、実際に見学へ行くと、想像していた空気とは全然違った。建物はかなり綺麗で、働いている人たちにもどこか余裕がある。同じ会社の別部署を地元で見たことがあったが、そこは昔ながらの工場という印象だった。だからこそ、「同じ会社でこんな違うんや」と驚いた。社員同士が自然に会話している様子を見ているうちに、少しだけ自分が働いている姿を想像できた。「ここなら働けるかもしれへん」そう思えたのは、その会社が初めてだった。
見学が終わると、自分はすぐに出願届を出していた。面接までは約2か月。同級生にも手伝ってもらい志望動機や自己PRを一緒に考えてもらった。その結果、「内定」。通知を見た瞬間は嬉しかった。でもそれ以上に、「ちゃんと社会に出られるんや」という安心感の方が大きかった気がする。ただ一方で、勤務地は地元から遠く離れた中部地方。友達とも簡単には会えなくなる。卒業が近づくにつれ、楽しみより少し寂しさの方が大きくなっていた。それでも春になり、自分は高専を卒業した。留年までした自分が、本当にここまで来れた。その感覚だけは、最後まで少し不思議だった。
新社会人——「向いてない」と思っていたはずだった
高専で下の方だった自分でも、仕事ではちゃんとできる。その感覚が自信になっていった。
高専卒は、たった3人だった
高専を卒業し、地元を離れて中部地方での生活が始まった。知らない土地での共同生活も初めてだったが、それ以上に緊張したのは入社式だった。会場に入ってまず感じたのは、「あれ、高専の人少ないな」という違和感だった。同期は60人近くいたが、そのほとんどが工業高校卒。高専卒はたったの3人だった。
さらに、その会社では高専卒も高卒扱いだったため、給与だけでなく研修も高校卒の同期たちと一緒に受けることになっていた。研修内容はというと専門的な内容をいきなり学べるのではなく、むしろ学生に近い社会の基本を学ぶ日々だった。朝のラジオ体操から始まり、実習をして17時ぴったりに終わる。そんな毎日が約10か月続いた。最初は「学生生活の延長みたいやな」と思っていたが、少しずつ自分の中で感覚が変わっていく。
はじめて感じた自信
研修も終盤に差し掛かり、実習研修も増えていったのだが、その時一番驚いたのは、自分が思っていた以上に実習内容を理解し、そこそこ作業もこなせていたことだった。
高専ではずっと成績が下の方で、留年もした。だから、自分は電気工学に向いていないと思い込んでいた。でも研修では違った。回路や機械の仕組みを説明されると、内容が自然と頭に入ってくる。もちろん手先が器用な同期もいた。でも、「なぜそうなるか」を考えながら動ける人は意外と少なかった。
その時、ふと思った。「クラスでは下の方でも、仕事はちゃんとできるんやな」試験では解けなかった問題も多かった。でも高専で習ってきたことは、ちゃんと自分の中に残っていた。その感覚は、自分にとってかなり大きかった。高専卒の同期にも頼られながら、次第に仲良くなり、休日に一緒に出かけることも増えていった。気づけば、社会人生活への不安は少しずつ薄れていた。
「特殊な配属」と言われた場所
無事長い研修が終わると、自分は品質保証部門へ配属された。品質保証部門の主な仕事内容は製品トラブルへの対応や試験、データ解析などを回路図やオシロスコープを使って行う仕事である。ただ、その部署は基本的に大学卒や大学院卒しか配属されない場所だった。そこへ高専卒の自分が入るのはかなり珍しかったらしい。最初は正直少し怖かった。「自分で大丈夫か」という不安はあった。でも、配属されてみると先輩たちは驚くほど優しかったのだ。
「高専ってどんなとこなん?」と興味を持って話しかけてくれたり、ご飯や飲みに連れて行ってくれたり、休憩時間には喫煙室にも誘ってくれた。休日もゴルフなどに誘ってくれた。やったことはなかったが、「できます」と言って誘われるまま打ちっぱなしへ行った。せっかく気にかけてくれたチャンスを不意にはしたくなかったから。あの時は「輪に入ること」が何より大事だと感じたからだ。ありがたかったのは、そんな自分を先輩たちが面白がりながらも可愛がってくれ受け入れてくれていたこと。
そのおかげで先輩や下請け企業の方にも仕事を頼みやすく、仕事も比較的スムーズに進めることができ、充実した社会人生活を過ごせていた。しかし…
転機——同じ会社なのに、まるで別世界だった
父の死をきっかけに地元へ戻ったことで、働く環境への価値観が大きく揺れ始めた。
順調だった社会人生活
配属されてから数年、仕事はかなり充実していた。一緒に仕事をしていたのは60歳前後のベテランの方で、「若いうちに覚えた方がいいから」と、多くの仕事を任せてもらっていた。もちろん大変なこともあったが、不思議と苦痛には感じなかった。むしろ職場の空気はかなり良かった。人間関係で悩むこともほとんどなく、同期とも休日に遊びに行ったり、ご飯に行ったりと自然に仲良く過ごせていた。大手企業だったこともあり、福利厚生も充実していた。長期休暇を取って海外旅行へ行くこともできたし、出社時間も比較的自由だった。服装もそこまで厳しくない。高専時代、自分は「ちゃんと社会でやっていけるんやろか」とずっと不安だった。でも社会人になってからは、その不安を感じることがほとんどなかった。このままここで働き続けるんやろな。気づけば、そんなふうに自然と思えるようになっていた。
親父が亡くなった日
社会人6年目のある日、その日常が突然止まった。父親が亡くなった。連絡を受けた瞬間のことは、正直あまり覚えていない。ただ、頭の中が急に静かになった感覚だけは残っている。すでに母親も他界していた。実家には妹一人だけが残る形になり、「このまま中部地方で働き続けるのは無理やな」と自然に思った。会社へ相談すると、中部の先輩や同期は本当に心配してくれた。当時の部長だった女性の方もかなり親身になって話を聞いてくれ、「すぐ動こう」とその場で手続きを進めてくれた。驚いたのは、そのスピードだった。相談してからわずか1週間で、地元・兵庫の部署への異動が決まった。あの時は、本当に会社に助けられたと思っている。
同じ会社のはずだった
地元へ戻り、新しい部署へ初出勤した日のことは今でもよく覚えている。会社の門をくぐった瞬間、「あれ、同じ会社よな?」と思った。建物はかなり年季が入っていて、社内もどこか薄暗い。節電なのか電気も最低限しかついていなかった。PC環境もまったく違う。中部ではノートPCにモニター2台が当たり前だったのに、ここではPC一台だけ。仕事内容も完全に別物だった。扱う製品も、関わる業界も違う。これまで積み上げてきたやり方が、一気にリセットされた感覚だった。働き方もかなり違った。中部ではフレックス制で、自分のペースで働けていた。でも地元では始業時間も終業時間も全員一律。もちろん、それが悪いというわけではない。ただ、自分は知らないうちに中部の環境にかなり慣れてしまっていた。時間が経っても、その違和感はなかなか消えなかった。
それでも、仲良くしてくれる先輩はいたし、仕事自体も嫌いではなかった。だから「そのうち慣れるやろ」と思いながら働き続けていた。でも、その時の自分はまだ知らなかった。この異動が、自分の価値観を大きく変える“転機”の始まりだったことを。
転職——「ここでは働けない」と思った日
人を大事にできない環境では働けない。その違和感が転職への一歩になった。
我慢していた違和感
地元の部署へ異動してから、ずっと小さな違和感を抱えながら働いていた。仕事内容も環境も、中部時代とはまるで違う。それでも「会社なんてこんなもんか」と、自分に言い聞かせながら仕事を続けていた。幸い、仲良くしてくれる先輩もいた。その先輩とは仕事の話だけでなく、休憩中に雑談をしたり、ご飯へ行ったりすることも多かった。だからこそ、「もう少し頑張ろう」と思えていた部分もあった。
たった一言だった
ある日、その先輩の母親が亡くなった。先輩は沖縄にある実家へ戻り、数週間会社を休むことになった。自分も父親を亡くした経験があったからこそ、その大変さは少し分かる気がしていた。中部時代、自分が苦しかった時には周囲が本当に気遣ってくれていた。だから、自分の中では「まずは相手を心配する」のが当たり前だと思っていた。
数週間後、先輩が職場へ戻ってきた。久しぶりに見た先輩は、明らかに疲れ切っていた。その時だった。上司が先輩へ最初に言った言葉は、「たまってる仕事、順番に片づけていって」だった。
その瞬間、自分の中で何かが切れた。もちろん仕事が止まるわけにはいかない。でも、家族を亡くしたばかりの人に対して、最初に出る言葉がそれなのか。そう思った瞬間、これまで我慢してきた違和感や不満が一気に溢れ出した。
高専へ戻るという選択
自分は、人間関係をかなり大事にしてきた。仕事は一人ではできないし、人との関係があるから頑張れる部分も大きいと思っていた。だからこそ、その部分を大事にできない環境で働き続けるのは無理だと感じた。「あ、自分ここでは働かれへんわ」その時、初めて本気で転職を考えた。
転職アプリを入れて登録もした。でも、履歴書やエージェントとの面談調整がとにかく面倒だった。そんな時、ふと高専の先生の顔が浮かんだ。軽い気持ちで高専へ行き、「転職考えてるんですよね」と相談すると、返ってきたのは予想外の言葉だった。「ちょうど職員が一人抜けるから、来るか?」
正直驚いた。でも、不思議と嫌ではなかった。高専では留年もしたし、苦しい思い出も多い。それでも、自分にとって大切な場所だったことは間違いなかった。給料は下がる。でも、「恩返しみたいなもんか」と自然に思えた。もし合わなければ、その時また考えればいい。そんな少し軽い気持ちのまま、自分は“学校職員”という新しい道を進み始めた。
現在——選び直し続ける人生
高専に戻り、教える側になり、さらに自分で何かを立ち上げる挑戦へ向かっていく。
数年ぶりに戻った場所
転職を決めたあとも、正直そこまで強い覚悟があったわけではなかった。転職活動を始めてはみたものの、履歴書や面談調整に疲れてしまい、なかなか身が入らない。そんな時に思い浮かんだのが高専の先生だった。「先生なら企業も色々知ってるし、紹介してもらえたら楽かもしれへんな」そんな軽い気持ちで高専へ顔を出し、転職を考えていることを話した。すると返ってきたのは予想外の言葉だった。「ちょうど事務室の人辞めるから、来るか?」
驚きはあった。でも不思議と嫌ではなかった。留年もしたし、苦しい思い出も多い。それでも、自分にとって高専は特別な場所だった。給料は下がる。でも、「恩返しみたいなもんやな」と自然に思えた。もし合わなければ、その時また考えればいい。そんな気持ちで学校職員の道を選んだ。
書類審査と面接を経て内定をもらい、会社を退職。4月から始まる新しい仕事に向けて、久しぶりに電気の勉強をし直した。学生時代に習った素子の名前や電子の動き。あの頃は苦手だった内容を、数年後にまた机に向かって勉強しているのが少し不思議だった。
「先生側」になって分かったこと
4月、数年ぶりに高専へ戻ってきた。ただ今度は学生ではなく、“教える側”だった。最初の実験実習は想像以上に難しかった。準備はしていたつもりだった。でも実際に始まると、時間配分、課題の出し方、学生への声かけ、考えないといけないことが次々に出てくる。今振り返れば、学生に無理やり課題を進めさせていた部分もあったと思う。
何より難しかったのは、学生との距離感だった。これまで仕事で関わるのは年上ばかりだった。でも今目の前にいるのは、自分よりかなり年下の学生たち。どう接すればいいのか最初は全然分からなかった。それでも少しずつ変わっていった。つまずいている学生には別の考え方を提示する。顔色を見ながら、話しかけるタイミングを考える。仲良くなりすぎず、それでいて相談しやすい距離を保つ。気づけば、自分なりの「関わり方」を少しずつ作れるようになっていた。
このままでは終わりたくなかった
学校職員としての日々は、会社員時代と比べるとかなり自由な時間が増えた。その中で、ある時ふと思った。「このままで人生終わるの、なんかつまらんな」
今の仕事に不満があったわけではない。むしろ恵まれていたと思う。ただ、せっかくなら何か新しいことにも挑戦したかった。でも、やりたいことが明確にあったわけではない。ただ一つ、「自分で何かを立ち上げたい」という気持ちだけはずっと残っていた。その熱が冷める前に動こうと思った。何をすればいいかも分からないまま、学生時代の知り合いに連絡を入れ、自分の想いを話した。
こうして自分は、学校職員として働きながら、自分で事業を立ち上げるという新しい挑戦を始めた。高専に入った時も、就職した時も、転職した時も、正直そこまで深く考えていたわけじゃない。それでも、その時その時で悩みながら選び続けてきた。
5年後、10年後。あの時動いてよかったと、自分で笑えるように。今はまだ、その途中にいる。
カツオさんと実際に話してみる
高専での挫折、留年、就職、異動、転職、学校職員としての現在、そして新しい挑戦について、
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