留年・就職・転機の中で見えたキャリアのリアル
カツオ Katsuo
全国大会優勝、高専での留年、大手メーカーへの就職、そして母校へ戻る転職。
流れに乗って進んできた人生から、自分の意思で「選び直す」人生へ変わっていったキャリアストーリー。
流れに乗って進んできた人生から、
自分で「選び直す」人生へ
水泳で全国大会優勝、高専での留年、大手メーカーへの就職、父との別れ、
地元への異動、そして母校への転職。
一見するとバラバラに見える経験の中で、少しずつ
「自分は何を大切にしたいのか」を見つけてきたカツオさん。
6つの章から、そのキャリアの流れをたどります。
決められた毎日の中で、
結果を積み重ねてきた少年
教育熱心な家庭で育ったカツオさんは、物心ついた頃から 水泳や塾、公文など、予定の詰まった毎日を送っていた。 学校が終われば水泳へ行き、その後は塾へ。 休日には大会があり、友達が遊んでいる時間も、自分は次の予定へ向かっていた。
それでも本人にとっては、それが当たり前だった。 水泳ではタイムが伸び、勉強でも結果が出る。 学校では委員長を任されることも多く、 自然と「できている側」にいる感覚を持つようになっていった。
中学でも水泳を続け、最終的には 全国大会優勝を経験。 スポーツ推薦という道もあったが、家庭では勉強を優先する流れがあり、 進学を選択する。
母から高専という進路を勧められ、 さらに水泳仲間から神戸高専への進学を誘われたことで、 「水泳を続けられるならいいか」という気持ちで高専を目指すことになった。
自分から強く選ぶというより、 目の前に用意された道を進み、その中で結果を出す人生だった。
初めて「今までのやり方」が
通用しなくなった
神戸高専を目指すことを決めたのは、中学3年生の8月末。 周囲がすでに受験勉強を進めている中での、かなり遅いスタートだった。
学科すら決まっていなかったが、高専の水泳練習に参加した際、 顧問の先生から 「神戸高専に行くなら電気科に行きなさい」 と言われ、その一言で電気工学科を選んだ。
しかし、赤本を開いて最初の数学問題を見た瞬間、 「これは無理や」と感じる。 一般入試ではなく推薦入試へ切り替え、 水泳の実績や委員長経験、人前で話す力を生かして合格を掴んだ。
ところが入学後、さらに大きな壁が待っていた。 90分授業、速い授業進度、専門的な内容。 そして最初の数学の中間試験で返ってきた点数は 42点。
中学時代は80点を下回ることがほとんどなかったカツオさんにとって、 初めて「自分はできる」という前提が崩れた瞬間だった。 そこからは、理解することだけでなく、 提出物や配点を考えながら「どうすれば進級できるか」を工夫するようになった。
自然に結果が出ていた環境から、 工夫しなければ前に進めない環境へ。
なんとか繋いできた人生が、
初めて止まった
高専では、理解できない科目があっても、 提出物や再試、補修などを活用しながら、 なんとか3年生までは進級していた。
しかし4年生になると状況は一変する。 専門科目はさらに難しくなり、 テスト平均が20点台という科目も現れた。 自分自身も一桁の点数を取ることが珍しくなくなった。
レポートを出し、補修を受け、再試を繰り返す。 時には400ページ近いレポートを提出したこともあった。 それでも、それまでの「なんとかする」という方法では限界が訪れた。
水泳でも勉強でも結果を積み重ね、 多少苦しくても前へ進んできたカツオさんにとって、 人生が明確に止まった初めての経験だった。
一方で、同じように留年した仲間や、 変わらず接してくれた後輩たちの存在に救われた。 そして、止まったことで初めて 「この先どうするのか」を考える余白が生まれていった。
留年は単なる失敗ではなく、 流れに任せていた人生を一度止める転機になった。
高専では下位でも、
社会では自分の力が通用した
留年を経験したこともあり、卒業後は進学ではなく就職を選んだ。 ただ、「絶対にここで働きたい」と思える会社はなかなか見つからなかった。
そんな中、就職担当の先生から勧められたのが 大手総合電機メーカーだった。 企業見学で職場の雰囲気に触れ、 「ここなら働けるかもしれない」と感じて応募。 内定を獲得し、地元を離れて中部地方で社会人生活を始めた。
同期約60人の中で、高専卒はわずか3人。 約10か月にわたる研修を受ける中で、 カツオさんは思いがけないことに気づく。
「クラスでは下の方でも、仕事はちゃんとできるんやな」
高専では成績が下位で留年までした自分が、 実習では回路や機械の仕組みを理解し、 「なぜそうなるのか」を考えながら作業できていた。
その後は、大学・大学院卒の配属が多い 品質保証部門へ。 製品トラブルへの対応、試験、データ解析などを担当し、 周囲との人間関係を築きながら社会人としての自信を身につけていった。
「学校の成績」と「社会で発揮できる力」は同じではない。 高専で学んだことは、確かに自分の中に残っていた。
「どこで働くか」より、
「誰とどう働くか」を選ぶようになった
中部地方での社会人生活は充実していた。 人間関係にも恵まれ、福利厚生も充実。 「このままここで働き続けるんやろな」と思える環境だった。
しかし社会人6年目、 父親が亡くなったことで生活が大きく変わる。 すでに母親も他界しており、実家には妹だけが残ることになった。 会社へ相談し、地元・兵庫の部署へ異動する。
ところが、同じ会社でありながら、 設備、勤務時間、仕事内容、職場の雰囲気は大きく異なっていた。 少しずつ違和感が積み重なっていく。
決定的だったのは、母親を亡くした先輩が数週間ぶりに出社した日のこと。 疲れ切った先輩に対して、上司が最初に伝えたのは 仕事を片づけるよう求める言葉だった。
「あ、自分ここでは働かれへんわ」
父親を亡くした自分を支えてくれた中部時代の職場を知っているからこそ、 「人を大切にできる場所で働きたい」 という価値観が明確になった。
転職を考え、母校の先生へ相談したところ、 思いがけず高専職員として働く話が持ち上がる。 給料が下がることよりも、 「恩返しみたいなもんか」という気持ちが勝ち、 母校へ戻る道を選んだ。
仕事の条件だけではなく、 人との関係や、自分が納得して働ける環境を大切にするようになった。
流されていた人生から、
自分で「選び直す」人生へ
数年ぶりに戻った高専では、 今度は学生ではなく「教える側」になった。
学生時代には苦手だった電気の内容を改めて勉強し直し、 実験実習を担当する。 最初は時間配分や課題の進め方、学生との距離感に悩みながらも、 少しずつ一人ひとりに合わせた関わり方を身につけていった。
自分自身が勉強についていけず、 留年まで経験したからこそ、 つまずく学生の気持ちも想像できる。 過去の挫折が、今では学生と関わる上での一つの経験値になっている。
そして学校職員としての日々の中で、 ある時ふと、こんな思いが生まれた。
「このままで人生終わるの、なんかつまらんな」
今の仕事が嫌なわけではない。 それでも、自分で何かを生み出すことにも挑戦してみたい。 そう考え、学生時代の知人へ連絡し、 自分自身で事業を立ち上げる新しい挑戦を始めた。
振り返れば、高専進学も就職も、 最初から明確な人生設計があったわけではない。 周囲から勧められたり、偶然の出会いから進路が決まったことも多かった。
しかし、留年、就職、父との別れ、異動、転職という経験を重ねる中で、 少しずつ「自分は何を大切にしたいのか」が見えるようになった。
かつては流れに乗ることで進んでいた人生が、
今では自分自身で選び直し、
新しい道をつくる人生へと変わり始めている。
5年後、10年後に
「あの時、動いてよかった」と笑えるように。
カツオさんの挑戦は、まだその途中にある。