プログラミングが嫌でも大手電子機器企業に就職
「負けず嫌い」が導いた、技術者としての物語
スポーツに打ち込んだ幼少期から、高専進学、卓球への熱中、就職、 そして社会人としての転機へ。負けず嫌いという一貫した軸が、 みじゅまるさんのキャリアを少しずつ形づくっていく物語です。
人生の軸――負けず嫌いが、すべての始まりだった
好きなことに全力で向き合い、負けたくない気持ちが人生の土台になっていった。
物心ついた頃から体を動かすことが好きだった私は、じっとしているより、動いている方が性に合っていた。
そのため、いろんなスポーツにも挑戦した。最初に通ったのは水泳教室だ。幼稚園から小学4年生まで、気づけば長い時間をプールで過ごしていた。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ。遊びの延長のように始めた水泳だったが、いつの間にかすべての泳ぎ方を覚えていた。何かを「できるようになる」感覚が、純粋に楽しく、気が付くと5年も続けていた。
小学4年生になると、放課後の遊びが変わっていく。これまで打ち込んだ水泳を辞め、次に夢中になったのが友達に誘われて始めたフットサルだった。正式なチームでもなければ、試合に出るわけでもない。ただ、コートを走り回り、ボールを追いかける。それだけで十分。勝ち負けよりも、夢中になれる時間がそこにはあった。
一方で、学校の少年団にも顔を出していた。バレーボール、バスケットボール、卓球など。ジャンルはバラバラだが、共通していたのは「面白そうならとにかくやってみる」ということだった。
そしてもう一つ、もっと根深い共通点として、「負けるのがとにかく嫌」だということ。楽しそうだから始める。でも、やるからには負けたくない。誰かより上手くなりたい。その感情が、私の中では自然に共存していた。
この性格は、スポーツだけに表れるものではなく勉強も一緒だった。学校のテスト。定期テストはもちろん、ちょっとした小テストでも、結果が悪いと悔しかった。友達だけでなく塾に通っている子なんかにも点数で負けると、なぜか胸の奥がザワついていた。
「次は絶対に勝つ」そう思うと、自然と机に向かっている自分がいた。遊びですら手を抜かない。特にテレビゲームはその象徴で、やるからには完璧にクリアする。友達が進めないステージほど燃えるし、攻略法を見つけるまで、何度でも挑戦した。
するといつの間にか、私にとって「負けず嫌い」が当たり前になっていた。
ただ、ゲームに関してはプレイするだけでなく、見るのも大好きで、プロのゲーム配信者が、同じゲームを極めていく姿。開発者が、どんな思いでその世界を作ったのかを語る動画。それらをYouTubeで見るたびに、胸が熱くなった。
「一つのことに、ここまで本気で向き合えるってかっこいい‼」純粋に、そう思えた。勝ち負けではなく、情熱を注げる対象があること自体が、まぶしく見えたのだ。
負けることだけは受け入れない。楽しいことには全力で向き合う。そうすれば自ずと素晴らしい人格者に慣れる。当時の私は、そんな人間になろうと意識していたわけではもちろんないのだが、今振り返るとこの頃に形作られた価値観が、その後の人生を静かに方向づけていたのだと思う。
好きなことを見つけると、とことんやる。結果が出ないと悔しくて、簡単には諦められない。この負けず嫌いが、やがて進路選択へ、環境選びへ、そして人生の大きな決断へと繋がっていくのだった。
高専への進路を決断したわけ
中学で出会った卓球と、ゲームを作りたいという憧れが進路を変えていった。
中学校という場所は、時に残酷なほど、昨日まで当たり前だった選択肢を奪っていく。
小学校時代、放課後の体育館で、コートを縦横無尽に駆け回っていたバレーボールへの情熱。中学でもその続きを描くつもりでいた僕を待っていたのは、「バレー部がない」という、あまりにあっけない現実だった。
用意された選択肢は、サッカー、野球、卓球、柔道。「本当にやりたいこと」が失われた心の空白を埋めるように、僕はなかば消去法で「卓球部」の門を叩いた。しかし、この限られた環境こそが、僕の中に眠っていた「負けず嫌い」という名の本能に、予想もしない形で火をつけることになった。
卓球という競技は、外から見るよりもずっと奥が深く、そして刺激的だった。時速100キロを超える速度で飛来する小さな白球。その回転を瞬時に読み、ミリ単位のラケットワークでコースを突き刺す。それはまるで、コンマ数秒の判断を積み重ねる「超高速のチェス」のようだった。
「やるからには、負けたくない」練習すればするほど、昨日まで返せなかった球が返せるようになる。その上達のサイクルは、かつて夜通し熱中したテレビゲームのレベル上げに似た快感があった。気づけば僕は、どっぷりとその深みにハマっていた。
しかし、当時の部活には壁があった。部員数が多すぎて、練習用の卓球台が圧倒的に足りないのだ。普通なら「順番待ちだから仕方ない」と諦める場面だろう。だが、僕のプライドがそれを許さなかった。
「打てないなら、打てる場所を作ればいい」僕は先生に掛け合い、空いていた支援学級の教室を貸してもらえるよう交渉した。放課後の喧騒から離れたその静かな教室に、一人でラケットを持って駆け込む。黙々とサーブを磨き、壁を相手に何度も、何度も球を打ち込み続けた。
「与えられた枠組みに縛られず、目的のために自ら環境をこじ開ける」この時、僕の根底には「エンジニア」としての本質的な資質が、すでに静かに芽生え始めていたのだと思う。
だが、僕の中には卓球と同じ熱量で、幼い頃から大切に温めてきた「別の顔」があった。『ニュースーパーマリオブラザーズ』の完璧なステージ構成や、『どうぶつの森』の穏やかでいて緻密な世界観。画面の向こう側に広がるあの魅力的な世界に、僕はただのプレイヤーとして遊ぶだけでは満足できなくなっていた。
「この仕掛けは、どんな仕組みで動いているんだろう?」「なぜ、このボタンを押した瞬間に、キャラクターはまるで命を宿したように動くのか」ゲームを攻略すること以上に、その「世界」そのものを自分の手で構築してみたい。そんな純粋で無謀なクリエイターへの憧れが、胸の奥でずっと脈打っていた。
塾に通わず高専合格へ
父の一言で高専を知り、自分のやり方で神戸高専合格を目指していった。
中学1年生のある日、リビングで父がふと口にした言葉が、僕の人生の導火線に一気に火をつけた。
「ゲームを作るための基礎や、プログラミングを専門的に学べる学校があるぞ」その名は、「高専」。高校3年間と短大2年分を合わせた5年一貫教育。15歳という多感な時期から「専門」の海に飛び込み、即戦力の技術者を育成する特異な場所。
もともと数学や理科といった「理屈が通った美しさ」に惹かれていた僕にとって、その提案は、霧が一気に晴れるような衝撃だった。「これだ」という確信が、全身を駆け巡る。普通科の高校へ行き、なんとなく大学へ進む。そんな「みんなと同じ未来」は、その瞬間に僕の選択肢から完全に消え失せた。
13歳の冬。僕は決めた。ターゲットは、「神戸高専 電子工学科」。まだ受験まで2年以上ある時期に、僕は自分の人生を「技術」という一点にベットした。卓球において、誰もいない教室で黙々と球を打ち込んだあの執念が、今度は「神戸高専合格」という標的に向かって研ぎ澄まされていく。目標が定まった人間の集中力は、驚くほど鋭くなる。
13歳の僕にとって、放課後の卓球台と夜の勉強机は、神戸高専合格という難関クエストを攻略するための、表裏一体の戦場だった。
卓球を始めて半年。中学1年の秋には、すでに上級生に混じってレギュラーの座を勝ち取っていた。同学年では負ける相手がいなくなった。「もっと高いレベルへ行きたい」外部のクラブチームも考えたが、親の「学校の部活で強くなりなさい」という言葉が、逆に僕の工夫する才能を呼び覚ました。
中学2年生では部活動での頑張りが評価されキャプテンに任命してもらえた。その頑張りが担任の目にも留まり、学級委員長や副委員長にも任命された。高専受験は、テストの点数だけではなくこうした目に見えない評価も非常に重要となってくる。図らずも僕は、自分の好きを突き詰めることで、合格への道を着実に進んでいた。
受験勉強も、僕は独自の道を選んだ。周囲が有名塾へ通い始める中、僕が頼ったのは小学生の頃から続けていた通信教育『チャレンジ』だけだった。
「塾のカリキュラムに身を任せるんじゃなく、自分のペースで理解したい」少し生意気な自負があったのかもしれない。でも、数学や理科は僕にとって「正解が一つに定まる美しさ」を持つパズルだった。予習で新しい概念にワクワクし、復習でそれを血肉にする。
副教科の体育や技術も大好きだったことが、さらなる追い風になった。高専入試では内申点が極めて重要だ。全科目に全力で向き合った結果、成績は塾なしでも学年トップクラスを維持していた。家で一人、静まり返った部屋で教材を開く時間。それは僕にとって、自分自身を「アップデート」する聖なる儀式だった。
15歳の誤算と、盤上の「知略」
夢見た世界と現実のずれの中で、卓球だけが知的興奮を与えてくれた。
「このままのやり方で、俺は勝てる」
卓球で培った「環境を工夫する力」と、独学で磨いた「思考の体力」。それらが噛み合い、神戸高専・電子工学科への距離が、計算可能な数値として縮まっていくのを感じていた。塾へ行かず、限られた環境で結果を出し続ける。それは僕にとって、一つの大きな「勝利」の形だった。
積み上げた内申点、独学の思考力、学級委員長としての実績。準備を怠らなかった僕は、高専受験を推薦入試で神戸高専・電子工学科への切符を手にすることができた。15歳の春。「ここでゲーム開発を学び、0と1の世界で魔法を手に入れるんだ」——そんな期待に胸を躍らせて門をくぐった僕を待っていたのは、想像とはまるで違う現実だった。
キーボードを叩いて画面にキャラクターを躍らせる。そんなキラキラした世界を夢見ていた僕の目の前に広がっていたのは、電気回路の計算、半導体の仕組み、複素数——目に見えない電気の流れを数式で追いかける、泥臭い「物理」の世界だった。
授業の大半は、プログラミング以前の「土台」を築く作業。肝心のプログラミングも、予備知識なしで飛び込んだ僕には想像以上に難解で、ついていくだけで必死だった。
「もしかして、僕はゲームを『作る側』じゃなくて『遊ぶ側』の人間だったんじゃないか?」一度頭をよぎったその疑念は、毒のように僕のモチベーションを蝕んでいった。学年が上がればソフトウェア寄りの実習が増えるはずだと期待したが、現実は回路系の実験ばかり。いつしか僕の目標は、「留年せずに卒業すること」という最低ラインまで引き下げられていた。
そんな日々の中で、唯一僕を熱狂させたのが「卓球」だった。ただし、高専での卓球は中学時代の「がむしゃらな努力」とは全く違っていた。僕は自分の体を一つの「ハードウェア」として分析し、最適な練習メニューを自ら設計するようになった。
「自分の体型なら、どの角度で打つのが最も効率的か」「長所を最大化し、短所を隠すための戦術は何か」その面白さは、試合中にさらに加速した。セット間のわずか1分。荒い息を整えながら、僕は脳内で相手を分析する。相手の弱点を炙り出し、次の戦術を組み立てる。それはまさに、僕が憧れた「ゲームの攻略」そのものだった。
教科書の回路図には心を動かされなかった僕が、卓球という四角い台の上で繰り広げられる「身体的チェス」には、かつてない知的興奮を覚えていた。「これだ。これが、僕が求めていた『考える楽しさ』だ」
皮肉な話だった。プログラミングの授業でモチベーションを失った僕は、卓球を通じて、エンジニアに最も必要な「分析と最適化」の喜びに目覚めていたのだ。勉強では埋もれながらも、卓球台を挟んで対峙する時だけは、僕は軍師のように冷静で、負けず嫌いな自分を100%解放できた。
高専大会とは――全国への切符と、諦めきれない夢
高専ならではの舞台が、部活への熱量と進路への葛藤を支えていた。
部活に熱中できたもう一つの理由——それは、年に1回開催される「高専大会」の存在だった。
高専出身者だけが出場できるこの大会は、参加校が全国で60校にも満たない。だからこそ、各地区大会からスタートし、勝ち上がればすぐに全国大会。しかも卓球の全国高専大会は、毎年各地区で開催されるため、日本全国を部活で仲間とともに飛び回ることができる。しかも会場の環境はインターハイレベル。
もちろん環境だけではない。地域によっては実際に高校のインターハイに出場した経験を持つ選手や高校の大会でも引けを取らないレベルの常連校が勝ち上がってくることもあるため、インターハイ出場者と本気で対戦できるまたとない機会でもある。
つまり、そこはインターハイのような大舞台で、通常では経験できない環境でプレーできるチャンスでもあった。「ここでなら、僕にも全国が狙える」真剣に打ち込めば、誰にでも大きな経験を積むチャンスがある。そう信じて、僕は毎年大会出場を目指して熱中した。部活動が、モチベーションを保つ唯一の拠り所だった。
そんなこんなで何とか日々を過ごしていたが、入学当初に思い描いていた「進学」という道は、いつしか遠のいていた。現実的に考えて、僕が選ぶべきは「就職」だった。就職先を探す中で、いろいろと悩んだ。しかし、一つだけ譲れないことがあった。
「高専で学んできた知識を無駄にしたくはない」そのため、僕はプログラミング系の会社に絞って就活を始めた。
卒業研究でも、僕は新しい挑戦を選んだ。これまで先輩方がやってきた研究とは違う、「プログラミングでロボットを操作する」という未開拓のテーマ。だが、誰もやったことがないということは、参考資料もデータも一切ないということだった。
「どうすればいいんだ……」想像以上にうまくいかず、壁にぶつかる日々。助けを求めたくても、誰も答えを持っていない。僕は1人、黙々と研究を進めていくしかなかった。苦しかった。孤独だった。それでも、何かが僕を前に進ませていた。
「諦めたくない。ここで投げ出したら、何も残らない」卓球で培った「分析と最適化」の思考が、ここでも僅かに光を見せ始めていた。少しずつ、少しずつ——道は、開かれようとしていた。
高専でのインターンシップについて
高専生にとってのインターンは、就活の前哨戦でもあり、大きな分岐点でもあった。
高専4年生の初夏。キャンパスの空気は一変し、どこか刺々しい緊張感に包まれ始めた。「就職」という現実が、無視できない距離まで迫ってきたからだ。
高専生にとって、4年の6月頃から始まる「インターンシップ」は、単なる社会勉強ではない。それは就職戦線における「最強のカード」を手にするための儀式だった。インターンに参加することで、企業から学校推薦を勝ち取れる可能性が飛躍的に高まる。5年生での本格的な就活よりも、この4年夏の数日間の方が、人生を大きく左右する——それが高専のリアルだった。
「どの会社にするか……」基本的に選べるのは1社だけ。僕は慎重に求人をめくった。特段「この会社しか眼中にない」というこだわりはなかった。けれど、僕には譲れないものがあった。それは、唯一のモチベーションである「高専大会」の日程だ。
「大会を諦めてまで就活をするのは、自分らしくない」結局、僕は夏休みに開催される高専大会と重ならず、それでいて自分の専門を活かせそうな「某電子機器メーカー」のインターンに申し込んだ。それが僕の、最初の大きな決断だった。
夏休み。5日間にわたるインターンは、新型コロナウイルスの影響で、すべてオンラインで実施された。本来なら現場を訪れ、実際のオフィスや働く人たちの様子を自分の目で確かめられるはずだった。だが今回は違う。パソコンの画面越しに、会社説明や仕事の内容、オフィスの様子、働き方や福利厚生といった制度について話を聞く形だった。
それでも、不思議と印象は強く残った。画面の向こうで話す社員たちの雰囲気。質問に対して丁寧に答えてくれる姿勢。仕事の進め方やチームの関係性の説明から伝わってくる、会社の空気感。
現場を直接見たわけではない。それでも、説明を聞きながら頭の中に少しずつ働く姿が浮かび上がっていった。「ここなら、無理なく自分を活かせるかもしれない」その出会いは、運命というには少し静かで、どこか理性的なものだった。けれど、5日間のインターンが終わる頃には、心の中でひとつの方向がはっきりしていた。
あれこれと目移りして時間を費やすより、まずはこの会社を目指してみよう。もし違っていたなら、そのときにまた考えればいい。
秋になり、周囲が焦り始める中、僕は静かに牙を研いだ。学校推薦を確実にするため、苦手な専門科目にも必死に食らいつき、単位だけは落とさないように気を付けた。
そして1月、求人解禁。ファイルに並ぶ200社以上の名前を横目に、僕は迷わず、あの夏の思い出が残る電子機器メーカーへと照準を合わせた。あとは、引き金を引くだけだった。
高専生の就活について
高専の就活は驚くほど早く、自分の強みをどう伝えるかが大きな鍵になる。
高専の就活は、驚くほど早い。
5年生に進級すると同時に、物語はクライマックスへと加速する。就職希望者の約7割が、新年度が始まってすぐに面接の場に立つ。早ければ3ヶ月ほどで、人生の進路が決まってしまうのだ。
僕が目指す会社も、例外ではなかった。4月の声を聞くやいなや、面接の日程が組まれた。準備の時間は限られていた。学校の先生を捕まえては模擬面接を繰り返し、ビジネス本を片手に対策を練る。
不思議と、卓球の試合前の感覚に似ていた。相手を分析し、自分の強みを最大化し、弱点を隠す——あの静かな興奮が、ここでも蘇ってきた。「自分の強みをどう面接で伝えるのか」それは、エンジニアリングそのものだった。
4月末。桜が散り始めた頃、僕の元に一通の報せが届いた。「内々定」あまりにトントン拍子に進んだ結果に、自分でも驚いた。クラスメイトの中でも、おそらく僕が一番早く就活を終えたはずだ。
よく他学科の友人から「電子工学科は、電気工学科と就職先が被って大変じゃないか?」と聞かれることがあった。しかし、実際は住み分けがしっかりなされていた。電子工学科なら「基本情報技術者試験」、電気工学科なら「電気主任技術者」。必要な資格という名の「通行証」が異なるため、競争相手は意外にも絞られていたのだ。
戦いは終わった。しかし、安堵に浸る暇はない。就活が終われば、あの中断していた「地獄の卒業研究」が再開される。誰も正解を知らないロボット制御の研究。孤独で、苦しくて、何度も投げ出したくなったあの研究をやり遂げなければ、この内定というチケットは紙屑になる。
「あと少し、あと少しだけ……」卓球で培った粘り強さが、僕の背中を押していた。深夜の実習室。動かないプログラムと格闘しながら、僕は窓の外に広がる「社会」という名の未知のフィールドを見つめていた。
新社会人の心情
高専時代に苦しんだ学びが、社会人になってようやく武器だとわかっていく。
春、僕はついに社会人の仲間入りを果たした。
入社後、半年間の研修期間。そこには高専卒だけでなく、大学生、大学院生、といった異なるバックグラウンドを持つ新人たちが一堂に会していた。入社前に会社で行われた入社前交流会で同期や会社の先輩たちと交流できたことで、人間関係の心配はなかったものの、経験や知識の面での不安がどうしても拭えなかった。
「大学で4年、6年と学んできた人たちには敵わないかもしれない」そんな謙遜に近い不安が常にあった。しかし、研修が進むにつれ、僕は意外な事実に気づくことになる。
「……あれ? わかるぞ、これ」専門知識の基礎、計算のロジック、回路の捉え方。講義の内容が、驚くほどスッと頭に入ってくる。それどころか、理論の裏付けにおいては、大学生たちとも引けを取らないほど深く理解できていると感じた。
あの、高専時代の苦痛でしかなかった半導体の勉強や、電気回路の計算。プログラミングの授業で感じた挫折。「あんなの、電気工学科と変わらないじゃないか」と投げ出したくなったあの時間が、今、僕を支える強力な「武器」として牙を剥いていた。
高専での5年間は、知識を「暗記する」のではなく「使える形で身につける」教育だったのだ。実習で手を動かし、卒業研究で誰も答えを知らない問題に取り組んだ経験が、今になって意味を持ち始めていた。「高専で学んだことは、無駄じゃなかったんだ」
資格試験も、研修を真面目に受けていれば難なくクリアできた。あの苦しかった日々が、ここで報われる瞬間だった。
半年後、僕はついに部署へと配属された。配属先で待っていたのは、巨大なシステムの一部を担う、反復性の高い仕事だった。けれど、不安はなかった。先輩が付き添い、現場ならではのノウハウや効率化の術を、手取り足取り教えてくれる環境があったからだ。
確かに、就活時に思い描いていた「最先端のゲーム開発」のような華やかさはない。けれど、特に特定の製品にこだわりがなかった僕にとって、目の前の仕事を論理的に片付けていく日々は、決して悪くないものだった。
むしろ、一つ一つのタスクに向き合い、確実に結果を出していく過程に、新しい充実感を見出し始めていた。学生時代のように「何のためにやっているのか」と迷うことはなくなった。目の前には、明確な目標と、それを達成するための道筋があった。社会人としての第一歩は、想像よりも確かなものだった。
社会人3年目の分岐点
転職だけが答えではないと知り、新しい部署で再び面白さを取り戻していく。
仕事に慣れ、生活のリズムが安定してきた社会人3年目。
多くの若手社会人が「このままでいいのか」と悩み、転職サイトに登録し始める時期だ。僕自身も、繰り返しの作業に少しずつやりがいが薄れ、「新しい場所を探すべきか」という思いが頭をよぎるようになっていた。周りの同期も、何人かが会社を去っていった。彼らの選択を否定するつもりはない。ただ、自分はどうすべきなのか——その答えが見つからないまま、日々が過ぎていった。
そんな時、会社から一つの辞令が下りた。「部署異動」
新しく配属されたのは、これまでとは全く毛色の違う部署だった。扱うシステム自体は小規模になったが、その代わり、システム全体の設計から運用まで、すべてを自分一人で任されることになったのだ。
「これまでは、大きな歯車の一部だった。でも今は、この小さな時計のすべてのネジを、僕が巻かなければならない」転職という選択肢は、一瞬で消え去った。
新たな部署での仕事は、想像以上にエキサイティングだった。常に頭を使い、予期せぬトラブルに臨機応変に対処する。誰も答えを持っていない問題に、自分なりの解を見つけ出す。その過程で、高専時代に苦しみながら取り組んだ卒業研究の経験が、ふと頭をよぎった。
「あの時も、誰も正解を知らなかった。それでも、僕は一人で道を切り拓いた」孤独だった卒業研究が、今になって、僕の背中を押してくれている。
社会人3年目の今、僕は一つの考えにたどり着いた。「もし今の働き方に満足できないなら、会社を変える前に、部署を変えるという選択肢もある」もちろん、これはすべての会社でできることではない。けれど、僕の会社には、社員が新しい挑戦をできるように部署異動という仕組みが用意されていた。会社側がそうした機会をつくってくれていたからこそ、僕は転職という大きな決断をする前に、新しい環境で自分を試すことができたのだ。
そして、そのチャンスを「面白い」と思えるだけの技術的な土台を、僕はあの高専の5年間で、知らず知らずのうちに築き上げていた。
今、僕はかつて思い描いたゲーム開発者とは違う形かもしれないが、間違いなく「自分の手でシステムを動かす」という喜びの中にいる。いつか、もっと大きなシステムを、自分の裁量で任せてもらえるように。かつて負けず嫌いだった少年は、今、プロのエンジニアとして、静かに、けれど熱く、次の一手を打ち続けている。
ーー 完結 ーー
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