空から大地へ──夢を追い続けた高専卒の選択
「空から大地へ」波乱万丈人生
高専という進路の選択、航空整備士として夢を叶えた先の揺らぎ、 農業への挑戦、撤退、そして今。
空への最初の衝動
小学生の頃に芽生えた、飛行機への強い憧れ。
僕が飛行機に初めて心を奪われたのは、まだ小学生の頃だった。
きっかけは、当時放送されていたテレビドラマ「グッドラック」。画面の向こうで、パイロットや整備士が膨大な責任を背負いながら空と向き合う姿は、幼い僕の胸に強烈な衝撃を残した。「飛行機のそばで働く」という世界が、その瞬間から急に現実味を帯びて目の前に広がったのだ。
それ以来、僕の頭の片隅には常に飛行機が飛んでいた。両親は旅行が好きで、年に一度は家族で知らない街へ出かけていた。空港に着き、重いスーツケースを引きながらターミナルを歩くと、巨大な窓の向こうに並ぶ飛行機たちがいっせいに視界に入ってくる。あの光景に触れた途端、胸の奥が一気に熱くなる。
チェックインを終え、搭乗口へ続く長い通路を歩きながら見る滑走路の光景――あれほど心を躍らせるものは他に無かった。
僕にとって飛行機は、単なる移動手段ではなかった。「移動そのものからワクワクさせてくれる最高の乗り物」であり、知らない世界へ誘ってくれる象徴だったのだ。
とはいえ、子どもの夢など移ろいやすいものだ。飛行機に心を奪われながらも、僕は典型的な“何にでも憧れる子ども”だった。ある時はプロサッカー選手を夢見て、放課後の公園で日が暮れるまでボールを追いかけた。またある時はシェフになりたくなり、誕生日には料理教室に連れて行ってもらった。大人に混じって包丁を握り、多国籍料理のレシピを真剣に学び、その日の晩ご飯に家族へ振る舞うのが楽しみで仕方なかった。
中学に上がる頃には、毎朝自分でお弁当を作るのが日課になっていた。卵焼きの焼き色や味付けにこだわり、弁当箱の詰め方に工夫しながら、料理の奥深さにのめり込んでいった。
しかし、どれだけ熱中しても、その先に自分の未来が続いているとは思えなかった。夢は心を躍らせてくれるが、未来の道筋にはつながらない。そんな幼さの中で、飛行機だけはなぜか特別な存在だった。
そして――僕の人生の方向を決定づける瞬間が静かに近づいていた。
航空整備士という夢(中学時の分岐点)
羽田空港の格納庫見学が、人生の向きを変えた転機。
その転機は、中学2年生の春に訪れた。
姉に誘われて東京へ旅行に行くことになったのだ。最初は「東京に行ける」という、ただそれだけの浮ついた期待しかなかった。しかし、羽田空港でその軽さは一瞬で吹き飛ぶことになる。
姉に連れられて見学した格納庫。その巨大な空間に一歩踏み入れた瞬間、僕は息をのんだ。
体育館がいくつも並んでいるような広さの中に、巨大な旅客機が悠然と佇み、その周囲には青やグレーの整備服を着た大人たちが黙々と作業を進めていた。工具の金属音が響き、整備用ライトが機体の腹を白く照らす。その光景は、テレビの画面越しとは比べものにならないほど生々しく、迫力に満ちていた。
飛行機は、ただそこに“ある”だけで特別な存在だった。しかし、それを支える人間たちの真剣な眼差しは、さらに強烈だった。
彼らは、誰かの旅や誰かの人生を安全に守るために、膨大な知識と技術、そして責任を背負って働いていた。小さなネジひとつが命を左右する世界。そんな緊張感に満ちた空気の中で、僕の胸はなぜか落ち着くどころか、どんどん高鳴っていった。
あの瞬間、飛行機は「憧れ」から「将来関わりたい世界」へと変わった。
空港という空間そのものが好きだった僕は、幼い頃から空港に着くと自然と胸が高鳴っていた。チェックインのざわめきも、アナウンスの響きも、漂う独特の匂いも、すべてが気持ちを高揚させた。それは飛行機に乗る前から始まる旅の“予感”のようだった。
その延長線上に、格納庫で働く整備士の姿があった。彼らの姿は、まるで僕の中に眠っていた何かを呼び起こすようだった。
「ここで働きたい」
「自分もこの世界の一員になりたい」
気づいたときには、そう強く思っていた。
この東京旅行はただの観光ではなく、僕の人生の向きを変える“分岐点”になったのだ。
この瞬間の衝動をきっかけに、僕は航空整備士という、人生で初めて“本気で叶えたい夢”を持つことになる。そして、ここから僕の物語は大きく動き始める。
高専との出会いと挑戦
夢と現実をつなぐ道として、高専という進路に出会う。
羽田空港の格納庫で感じた胸の高鳴りは、一過性の興奮ではなかった。
東京から地元へ戻った僕の頭の中には、あの日見た整備士たちの姿が何度もよみがえった。彼らがあの巨大な機体を前に、何の迷いもなく作業をこなす姿――あれは、生半可な気持ちでは辿り着けない世界だと直感していた。
だからこそ、僕は動き出した。休日になると、本屋と図書館を巡るのが日課になった。航空雑誌、整備士の専門書、空港の仕事を紹介する図鑑のような本まで、片っ端から手に取った。ページをめくるたびに、夢が現実の輪郭を持ち始める感覚があった。
家に帰れば、パソコンの検索履歴は「航空整備士になるには」「航空整備士 進路」「航空イベント」「空港 仕事 資格」で埋め尽くされていった。
しかし、調べれば調べるほど“現実”が目の前に立ちはだかる。中学2年の僕には、突然成績を跳ね上げる魔法なんてない。数字と向き合うたびに、「このままじゃ何も始まらない」という焦りが胸の奥を締めつけた。
そんな中、僕は一つの大きな選択肢にぶつかった。羽田空港の見学に招いてくれた方が通っていたという大学が、東北大学であると知ったときの衝撃は忘れられない。超名門――“今の僕”からは、まるで手を伸ばしても届かない星のような場所。憧れを抱くことさえ、おこがましい気がした。
次の選択肢は航空専門学校だった。しかし、中学生の段階で専門性の高い道に絞り込むのは、どうしてもリスクが大きい。もし途中で道を変えたくなったらどうする? 本当に業界一本で進む覚悟ができているのか? そう考えると踏み切れなかった。
そんな時に出会ったのが、「高専」という存在だった。
高校と専門教育が一体になった5年制の学校。工学の基礎から応用までを深く学べるだけでなく、幅広い分野に触れながら進路を選べる。しかも、毎年1、2名ほど大手航空会社の整備士に進んでいる実績もあると知り、胸がざわついた。
「これだ……!」
初めて、夢と現実をつなぐ“具体的なルート”が目の前に現れた瞬間だった。
ただし、当然ながら簡単に入れる学校ではない。僕の成績では、むしろ“無謀”と呼ばれる挑戦だった。それでも、やらずに諦める理由はどこにもなかった。
そこからの毎日は、今思い出しても胸が苦しくなるほど必死だった。塾に通い、家に帰れば机に向かい、眠気に負けて何度も意識が飛びそうになりながらも、数学・理科・英語――高専の受験科目をひたすら磨き続けた。
だが、模試の結果は冷酷だった。D判定、E判定。評価としては「ほぼ不合格」と突きつけられているようなものだ。結果を見るたびに心が折れそうになった。
それでも机に向かったのは、「それでも飛行機の世界に行きたい」という気持ちだけが僕を支えていたからだ。
努力はすぐには報われなかったが、少しずつ変化は積み重なっていった。中学3年の2学期、通知表の成績が一定ラインを越え、筆記を受けずに推薦(面接のみ)を狙える可能性が見えてきたのだ。
それでも倍率は高い。落ちれば筆記試験に回らなくてはならず、筆記での合格確率はほぼゼロ。背水の陣だった。
だから、面接対策も全力だった。学校の先生、家族、塾の講師――あらゆる大人に面接練習をお願いし、何度も頭を下げて協力してもらった。
「なぜ航空整備士になりたいのか」
「なぜ高専なのか」
「何を学び、将来どうなりたいのか」
何度も何度も問われ、何度も何度も答えながら、自分の言葉が磨かれていった。
そして――試験当日。緊張で喉がカラカラになりながらも、僕は自分の言葉で、航空整備士になりたいという思いのすべてを伝えた。
結果は、“奇跡”だった。
合格通知を見た瞬間、足が震えた。手にした紙の感触が信じられず、何度も何度も読み返した。あの日ほど「努力は人を裏切らない」と感じた瞬間はなかった。
僕は、夢に続く最初のドアを、確かに開けたのだ。
充実した高専生活と夢の実現に向けた就活
高専での学びが、航空整備士という夢を現実へ近づける。
高専に合格した日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
あの日を境に、僕の人生は確実に「航空整備士」という道へ動き始めた。
高専の5年間は、想像していたよりはるかに濃密だった。入学当初は、周りのクラスメイトのレベルの高さに圧倒され、授業についていくのに必死だった。特に数学や化学は、飛行機の仕組みを支える基礎となる分野であり、理解できなければ先へ進めない。授業中、黒板にびっしり書かれる数式の意味を追いかけながら、「この先、自分は本当に整備士になれるのだろうか」と不安になることもあった。
しかし、専門科目が増えていくにつれ、その不安は徐々に“学ぶ楽しさ”へと変わっていった。
材料力学では飛行機に関連する金属、複合材、樹脂――それぞれの強度特性や疲労性、そしてどんな環境条件についても間接的ながら学ぶことができ、構造力学では様々な物の強度解析や設計をすることで多角的な視点で物事を見る力が養われた。
「飛行機って、こんなにも多くの計算と技術の結晶で飛んでいるんだ…」
教科書の数式が、滑走路で加速する機体の“鼓動”とリンクするように感じられた。
4年生になる頃には、航空会社のインターンに参加する機会も与えられた。実際の整備現場に入り、整備士たちが手際よくパネルを開け、部品を点検し、定刻通りに飛行機を送り出す姿を間近で見た瞬間――胸が一気に熱くなった。
「これだ。僕が目指している世界は、まさにここなんだ。」
制服に油がつくことも気にせず作業を続ける整備士の姿。巨大なエンジンの音にすら、なぜか安心感を覚える自分。すべての瞬間が、子どもの頃に羽田空港で感じた“あの高揚感”につながっていく。
周囲の学生の中には、進路を変える人もいた。しかし僕だけは、迷うことがなかった。むしろインターンの経験で、「この道の先に自分がいるべきだ」という確信が強まり、学びへの姿勢はより必死なものへ変わった。
その頃から、休日の過ごし方も変わった。書店に足を運んでは航空整備士のキャリアや就職活動に関する本を手に取り、ページが擦り切れるほど読み込んだ。さらに地元で行われる航空イベントにも積極的に参加し、現場で働く整備士の方々に直接質問を投げかけた。
機体トラブルへの対処、整備ラインの空気感、就活で求められる姿勢――どれも教科書には載っていない“生の声”。聞けば聞くほど、自分の歩むべき未来の輪郭がはっきりしていった。
そして迎えた5年生の春。卒業後の進路を決める時期になり、僕は迷うことなく、あの日羽田空港の格納庫で胸を震わせたときに夢を与えてくれた航空会社の整備部門へ応募する道を選んだ。
書類審査、面接、技術試験――どれも簡単ではなかったが、高専で積み上げてきたものすべてをぶつけるつもりで臨んだ。
結果は合格。念願の一歩を踏み出せることになった。
合格通知を見たとき、胸の奥が熱くなり、言葉が出なかった。
“あの日”ドラマを見て胸を焦がした小学生の自分が、
“あの日”羽田空港の格納庫で整備士の姿に憧れた中学生の自分が、
“やっとここまで来たんだ”と静かに喜んでいる気がした。
高専の5年間は、決して華やかではなく、むしろ地味で泥臭い努力ばかりだった。しかしその積み重ねが、夢を現実に変えるために欠かせない時間だったのだ。
ただ…現実は、想像していたよりずっと厳しかった――
揺らぎ始めた道 ― 世界が止まった日から見えた新たな人生
夢を叶えた先で、安定と違和感の両方に向き合うことになる。
航空会社に入社し、最初の1年間は研修生として必死に技術を身につける日々だった。
座学では航空法、機体構造、整備手順の基礎を叩き込み、現場では先輩の背中を追いかけながら工具の扱いから安全確認の“癖”まで吸収していく。毎日が新しく、そして刺激に満ちていた。
初めて自分の手で整備した飛行機が、安全に離陸していく姿を滑走路越しに見送ったとき――胸の奥が熱く滾った。
「ついに、子どもの頃に憧れた場所に立てたんだ」
あの瞬間、航空整備士になった実感が全身を駆け巡り、家族にも“夢を叶えた姿”をやっと見せられた気がした。
整備士として働き始めた日々は安定していた。技術を磨けば評価され、給料も少しずつ上がっていく。努力が形になる環境は、確かに心地よかった。
――けれど、そんな日常が続いた矢先、世界が急に止まった。
コロナ禍。空港の滑走路からは飛行機が消え、整備庫には予定のない機体が静かに並んだ。航空業界が一気に冷え込み、研修明けの僕たちでさえ先の見えない不安に包まれていた。
整備庫で工具を握りながら、ふと考える瞬間が増えた。
「この先の10年、20年…自分の未来があまりにも鮮明に見えてしまう」
安定を得たはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく。会社にいれば評価され、生活は守られる。けれど、その延長線上に“本当に歩みたい人生”があるのか――答えが出なかった。
そんな時、偶然手に取った本がすべてを変えた。
ムハンマド・ユヌスの自伝。
“たった一つの事業が、社会の構造を変えることがある。”
その言葉は、まるで胸の奥に小さな火を灯したようだった。
僕は、これまで“自分の夢を叶えるため”に努力してきた。けれど、その先にあるのは「自分の人生を使って誰かの役に立つ」という、まったく別の世界。安定の上に立つ未来より、そちらの方が圧倒的に魅力的に感じてしまった。
気づけば、整備士として働きながらも
「自分にしかできないことは何だろう」
「社会に価値を生み出す生き方はできないか」
そんな問いが、頭から離れなくなっていた。
ある朝、いつも通り始業点検の準備をしていると、手が止まった。工具の冷たい金属が掌に触れたまま、心の声がはっきり聞こえた。
「今動かなければ、きっと一生このままだ。」
その瞬間、迷いは霧のように消えた。安定した人生を手放す怖さよりも、何もしないまま人生を終える方が、はるかに恐ろしかった。
振り返れば、この時がすべての始まりだった。僕が“整備士というレール”を降り、“社会を変える側に立ちたい”という決意へ向かって歩き出した転換点。
あの日、世界が止まったことは不幸ではなかった。むしろ――新しい人生が動き出すための、静かな合図だったのかもしれない。
ただし、この時の僕はまだ知らなかった。これから待ち受けるのは、想像を絶するほど険しく、しかし誰よりも自分を成長させる日々だったということを――。
会社を辞める決断と、新しい道への準備
農業という未知の世界へ飛び込むための決意と準備。
強い思いはあった。しかし、その先に立ちはだかったのは現実だった。
――自分には突出したスキルがあるわけじゃない。
――社会課題と向き合うとして、何から着手すべきなのか。
考えれば考えるほど答えは遠ざかり、胸の中にもどかしさだけが蓄積していった。
そんな時、一本の連絡が届いた。高校時代の先輩であり、経営者として活躍している方からだった。久しぶりに会って話をする中で、彼が語った次の挑戦が「農業」だった。
しかも、ただの農業ではない。技術と仕組みを掛け合わせ、社会性を持った新しい農業モデルを作ろうとしていた。
その瞬間、心の奥で点と点がつながった。ムハンマド・ユヌス氏が掲げたテーマのひとつも農業であり、食・雇用・貧困・環境――多くの社会課題が交差する領域だ。
そして先輩は言った。
「もしよかったら、一緒にやってみないか?」
農業経験はゼロ。家族に農家もいない。大阪に住んだこともない。それでも不思議と迷いはほとんどなかった。
“社会のためになる仕事をしたい”――その願いに、初めて道が灯った気がした。
「思い切って飛び込んでみよう。」
そう決めた瞬間、歯車が一気に回り始めた。退職手続きも、引っ越しの準備もすべて一気に進めた。
ただ、親には言えなかった。言えば止められる。揺れる。そして迷う。なにより、航空整備士は中学生の頃からの夢だった。図書室で航空機工学の本を読みあさり、専門学校のパンフレットを擦り切れるほど眺めた。“自分が整備した飛行機が空を飛ぶ”その未来を想像するだけで胸が熱くなった。
その夢が現実になったとき、誰よりも喜んでくれたのは両親だった。だからこそ、今回の決断は到底理解されないと分かっていた。
すべてが終わったあと、ようやく伝えた。
「会社、辞めたから。」
リビングに短い沈黙が落ちた。胸が少し痛んだ。案の定、強く反対された。安定を捨て、未知の業界へ飛び込むと言うのだから当然だ。
しかし、話し合いを重ねるうちに、両親の声色が変わっていった。
「本当にやりたいなら、やってみたらいい。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。心配しながらも、どこか応援してくれている。その事実に、深い感謝が込み上げた。
荷物を車に積み、ゆっくりと地元を離れる時、「自分の人生を自分で選んだ」という確かな実感があった。
天国から地獄へ──農業1年目のリアル
安定した世界から一転、農業の過酷な現実と向き合う。
航空整備士として働いていた頃、世界は驚くほど整っていた。
マニュアルがあり、基準があり、守るべきルールが明確に存在する。努力をすれば、必ず評価につながる。生活は安定し、社会の枠組みのなかで安心して呼吸ができた。
しかし大阪で始まった新しい生活は、そのすべてが反転した。社会の外側に放り出されるとは、こういうことか——。その意味を、初日にして痛烈に思い知らされる。
住まいは農場の端にある“4畳ほどの物置小屋”。トイレも風呂もない。寝床は軽バン。季節は11月、吐く息が白く残るほどの冷気が頬を刺す。朝4時半、真っ暗な農場へ。霜で指は動かず、呼吸のたびに肺が痛む。それでも手作業で野菜の状態を見て、葉を捌き、根を確かめ続ける。
夜は3日に1度だけ銭湯へ。それ以外は、身体を拭いて終わり。食費は極限まで削り、夜は300円の天丼と味噌汁。腹を満たすというより、「今日もとりあえず生きた」という確認作業だった。
東京で整備士を続けていれば——こんな暮らしを想像することすらなかっただろう。
それでも、不思議と心は折れなかった。
「これは自分で選んだ道だ」
「この経験は、きっと後で意味になる」
言葉にならない確信のようなものが、胸の奥で静かに灯り続けていた。
だが、生活の過酷さは序章にすぎなかった。本当の地獄は、農業そのものにあった。
野菜は人間の都合を待たない。1日の判断ミスが、翌朝には病気の蔓延として跳ね返る。育て、収穫し、営業し、配送し、請求処理をし、売れ残りを見つめ、対策を考える。生産・販売・経理・研究――会社のすべての工程を、たった一人でこなす日々。身体は限界でも、頭は休まらない。
正解のない世界で判断し続けることが、どれほど人を削るのか。その現実は、容赦なく襲ってきた。
それでも、あの凍える畑で過ごした日々は、知らないうちに僕の土台をつくっていた。自然の厳しさも、地域の優しさも、手をかけた分だけ返ってくる努力の重みも――すべてが少しずつ血肉になっていった。
そして、気づかぬうちに僕の中で何かが変わり始めていた。
たとえば毎朝、畑に差し込む光の色を見ただけで、今日の湿度と作物の機嫌がなんとなくわかるようになった。一つの苗の変化から、翌週の収量が頭の中で勝手に計算されるようにもなった。
あの頃は、まだ知らなかった。この“感覚の芽”が、後にとんでもない未来へつながっていくことを。そしてこの先――僕は農業人生の中でも、指折りの修羅場に足を踏み入れることになる。
農業で繋がる仲間と、もう一度踏み出す力
孤独な挑戦の中で、人との出会いが未来を広げていく。
農業1年目の生活は、想像以上に孤独だった。
畑と物置小屋と軽バン。その往復だけの毎日。誰とも言葉を交わさない日が続くと、「自分は何をしているんだろう」と、ふと心が揺らぐ瞬間があった。
そんな中で、世界を少しずつ広げてくれたのが、SNS投稿とライブ配信アプリだった。作業の合間、泥を落とした手でスマホを握り、その日の畑の様子や失敗談を正直に投稿する。順調とは言えない現実、思うように育たない野菜、体力的にも精神的にもきつい日々。それでも包み隠さず発信し続けていると、少しずつ反応が返ってきた。
「同じことで悩んでいます」
「農業って、そんなに大変なんですね」
画面の向こうに、同じ現場で戦っている誰かの存在を感じるようになった。
ある日、大阪で新規就農したという30代の女性からメッセージが届いた。やり取りを重ねて知ったのは、彼女が夫婦で農業を営み、農地の確保から生産、販売、広報までを一手に担い、すでに事業を軌道に乗せ始めているという事実だった。
正直、衝撃だった。自分が必死にもがいている少し先を、彼女はもう歩いていた。
思い切って、「一度お話を聞かせてもらえませんか」と連絡すると、返事は意外なほどあっさりだった。
「ぜひ。私でよければ。」
実際に会って話を聞いてわかったのは、特別な才能や裏技があったわけではないこと。数え切れない失敗、断られ続けた営業、眠れない夜。それでも続けてきただけだった。違いがあるとすれば、「諦めなかった回数」だった。
この出会いをきっかけに、視界が一気に広がっていく。大阪で複数の農産物を扱う事業者、独自の販路を築く農家、加工や流通に強い人たち。畑の中だけだった世界が、外へ外へと広がっていった。
「農業は、作るだけじゃない」
売り方、伝え方、価値のつくり方。ひとりでは答えが出なかった問いに、少しずつヒントが集まり始めていた。
そしてもう一つ、大きな再会があった。小学・中学時代の同級生だ。SNSを見て、「実は農業に興味がある」と連絡をくれた。
久しぶりに会って話すと、不思議なほど話が噛み合った。彼もまた、今の仕事に違和感を抱え、次の一歩を探していた。
「それなら、一緒にやってみないか?」
気づけば、そんな言葉が自然と口をついて出ていた。ひとりで背負ってきた農業を、初めて“誰かと一緒に進めるもの”として考えた瞬間だった。
農業は、今も厳しい。楽になったわけでも、安定したわけでもない。それでも今は思う。人と出会い、想いを重ねることで、農業は「孤独な挑戦」から「続けられる事業」へ変わっていくのだと。
ひとりでは見えなかった未来が、仲間となら、少し先まで描ける気がして――しかし、現実は厳しい…
農業経営の現実と決断の日
手応えが見え始めても、経営として続ける難しさに直面する。
少しずつ、確かな手応えは出始めていた。
飲食店やスーパーとの取引は増え、気づけば三十店舗を超えていた。ネット通販でも「応援の気持ちで」と野菜を購入してくれる人が現れ、画面の向こうに確かに誰かの生活があることを感じられるようになっていた。
それでも、経営は楽にはならなかった。売上が伸びても、資材費や燃料費、配送コストが静かに利益を削っていく。天候ひとつで収穫量は大きく変わり、判断を誤れば、そのまま赤字に転落する。数字を見つめるたびに、農業が「想い」だけでは続かない現実を突きつけられた。
何か突破口がないかと、書店で農業経営の本を読み漁り、マルシェや農家交流会にも足を運んだ。経験豊富な農家の方々からアドバイスももらった。しかし、即効性のある答えなどなく、耐える時間だけが積み重なっていった。
僕と仲間は貯金を切り崩し、足りない分はアルバイトで補いながら暮らしていた。畑では前向きな顔をしていても、夜になると不安が静かに広がる。眠れない日が続き、体調を崩すことも増えていった。
「このまま続けて、本当に大丈夫なのか」
何度も夜遅くまで話し合った。やる気がないわけじゃない。農業を諦めたいわけでもない。だからこそ、無理を続けて二人とも壊れてしまう未来だけは避けたかった。
出した答えは、苦しくも現実的なものだった。
一度、それぞれの場所で力をつける。経営として通用する実力を身につけてから、必ず戻ってくる。
僕は、農業部門を持つ新規農業事業の企画・マーケティング会社へ進んだ。現場を知っているからこそ、「どう売り、どう伝え、どう事業として成立させるのか」を根本から学び直したかった。
仲間は、農業参入を目指すベンチャー企業の経理部門へ。数字と資金の流れを理解する立場から、農業を支える道を選んだ。
畑を離れる決断は、正直つらかった。けれど、これは終わりではない。続けるために、いったん距離を取るという選択だった。
「必ず、また戻ろう」
そう約束して、僕たちは一度、農業から距離を取った。
次に畑へ戻るときは、夢だけではなく、続けられる覚悟と力を持って――。
そして現在──経験がつながり、次の挑戦へ
遠回りも失敗もつながって、いま新しい挑戦へ向かっている。
農業から一度距離を置き、企画・マーケティングの世界に身を置いたことで、僕の視界は大きく広がった。
現在は、農業に関心を持つ企業を相手にしたBtoBマーケティングの現場で、新規農業事業の企画や戦略立案を担当している。
これまで出会うことのなかった農業業界の方々と接する機会が増え、産地、流通、加工、行政、スタートアップ――それぞれの立場が抱える課題を、少しずつ立体的に理解できるようになっていった。
特に大きかったのは、一から農業事業を立ち上げた実体験があったことだ。畑探し、初期投資、栽培計画、販路開拓、価格設定、失敗と赤字。その一つ一つを自分の身体で経験していたからこそ、事業提案の場では机上の空論ではない話ができた。
「実際、現場ではここで詰まります」
「この判断は現実的ではありません」
――そんな言葉に、相手が真剣に耳を傾けてくれる場面も増えた。
結果として、一時は底をつきかけた貯金も少しずつ回復し、ようやく“普通に生活できる”ところまで戻ってきた。それは単なる金銭的な回復以上に、「もう一度挑戦できる場所に立てた」という感覚だった。
そして今、僕は再び農業に深く関わるための、大きな挑戦を決めている。
ひとつは、農業戦略で頭を抱える人たちと並走する農業コンサルティング事業。現場の声を聞き、畑を見て、数字と感覚の両方を行き来しながら、打開策を一緒に作り込んでいく。そんな実践型の農業コンサル「サクッとクリエイティブ」を、2026年1月末に立ち上げる予定だ。
過去の失敗も、遠回りも、すべてを血肉にして、今度は誰かの背中を支える側に回りたい。
もうひとつは、高専という場所から社会へ出た人たちの“次の一歩”をつなぐ事業。高専を卒業し、就職もできた。でも心のどこかで「このままでいいのか」「別の世界にも挑戦してみたい」と感じている人は、決して少なくない。かつての自分がそうだったように。
同じような思いを持つ人たちが、安心して語り合い、つながれる場をつくりたい。そんな願いから、「Kosen Talk Ring(高専トークリング)」という事業を、こちらも2026年1月に立ち上げる予定でいる。
農業の現場、企業の会議室、数字と汗、理論と感情。さまざまな立場を行き来してきた今だからこそ、見える景色がある。
これは、ようやく「現在」にたどり着いた物語。そして同時に、ここから始まる、新しい挑戦の物語でもある。
—— 完結 ——
なるきさんと実際に話してみる
進路のこと、高専卒業後のキャリア、航空業界から農業への転身、 起業や新しい挑戦について、直接キャリアトーク予約で相談できます。